鬱病患者、ガラスコップの旅にでた。その日記。
旅というか、家出というか。何というのか。
夕方突如思い立った故の一人旅。直前に予約して素泊まりできるのはこんな山奥にしかなかった。帽子に長い髪を丸め込み、男装ぶった格好で歩く道すがら。街頭の少ない峠を上り、漸くして辿りついた宿舎。いやはや、それにしても…着いてしまった。途中道の暗さに身も震えたが、月を見上げては安堵と感嘆。 フロントでのチェックインも済ませた私は、早速髪を振りほどきベッドに転がり、この記録を付けるべくnoteを開く。簡潔に、此処に至るまでのことを書こう。
朝方、相変わらず憂鬱。昼過ぎ、薬を服用しただけでそれから再びベットに籠城。何時もの休日と変わらず、無意味な惰眠を貪っていた。
唯一精神病の告白をした身内、妹は今夜大学の友人宅にて一晩明かすという。元より孤独から逃れた同士共に縋る術としていた、SNSを開く。今の私には同士との傷の舐め合いすら毒となり、出来うる限り距離を置いていた存在だったが。
孤独よかマシだと開き、そしてやはり後悔した。
いつもそうなのだ、私は。
病が悪化しているときはこうなのだ。
他者の何気ない言葉に苦しくなる。
他者のキツい辛いという単語をみて、それが私に向けられたものでないと理解していても尚、「お前より私が辛いのに、何故お前のような人間が病に苦しんでいるのだ」等と責められているような妙な閉塞感を覚えてしまう。昨夜妹に言われた何気ない、「母さんはいつも姉さんには過保護だからよかったね」という言葉でさえも、私への慰みでさえも、私は私への悪意として受け取る私に気づいていた。被害妄想の成れの果ては醜いとはまさにこのこと。病に侵された心のこれはいよいよ私本人ですら反吐が出る。
そんな風に受け取る自らをまた、嫌になった。
やい、この雲行きは良くないぞ。SNSは、やはりやめておこう。じわじわと胃の底から湧き出す暗がりを察し、飛び起きた。一目散に飛び起き、茶香炉を焚く。満ちる香りでは間に合わず、ガラスコップを取り出すと自らの言葉を綴る。綴る。綴る。
[私は私だ。お前はお前だ。辛いのも悲しいのも楽しいのも嫌なのも怖いのも、ただ己だけのものであって、優劣などない。比べてはならない比べない等と訴えながらも比べる己を嫌いになるな。それが人間だ。それが私だ。私は人間だ。]
手の腹が黒くなってしまった。澄んだ透明だったガラスコップは、文字にまみれていた。私の内側を曝したら、汚れきってしまった。そろそろ此奴は叩き割るべきだろう。それで流してしまおう。この黒い靄共を。そうした目的で買ったガラスコップなのだから。
割るなら、外に行かねば。
あ、そうだ。割るときは、旅に出るつもりだった。ならば、旅にでなくては。
そう落ち着いた時間は既に17時。そろそろ母親が帰宅する。さすれば止められる。この病人は未だ親に心配される身だから。となれば、急がねばなるまい。慌てて、とにかく必要最低限の荷物をリュックへと詰め込んだ。
半ば家出のような形で、パンパンのリュックを背負い、外に出る。
旅といってもこのときは泊まりがけの勇気はなく、とりあえずは遠くの銭湯へ。それからカラオケで夜を明かそう等と考えながら。電車の椅子に腰掛けると、親にはLINEで「友人と遊んでくる。泊まるかはわからないからまた連絡する。」と嘘。これで事件に巻き込まれてしまえばニュースになってしまうな……ヘンテコな妄想にニヤリ。
遠くの銭湯を調べながらの移動。そのなかで、良さげな場所を見つけた。近くには素泊まりもできる宿舎。うん、案外悪くない値段だ。
……
乗り換えの電車に乗る。帰りの学生やら会社員が詰め込まれた車内にて、リュックを前に乗り込む。再度開いた携帯で、宿舎の空きを調べる。空いていたのだ。平日。しかも山の奥。それはそうだ。
…………
迷った末、一度カラオケボックスに籠って考えあぐねた。しかし、迷ったならば行動すべし。今の私はそれをすべく動いているのだ。ならば予約してしまえ。そうした勢いのまにまに、予約をしてしまう。覚悟を整えるべく、借りたカラオケボックスで1時間だけ歌いあげて、出発。
18時30分。急に訪れた秋の肌寒さに加え、日の沈みは早い。地図を開くとなかなか人里離れた道のりである。念には念をと、髪を束ねると被っていた帽子に入れ込んだ。さらにコンビニで幾許かの食品を買い込む。いざ、向かわんと。歩き出す。
道は次第に坂となる。山々に囲まれ、時折通る車のヘッドライト以外の光はない。次第に車の気配すら減る。空を見上げると、月が綺麗。思わずシャッターをきる。それ以外の景色を見渡すのは、恥ずかしながら臆病な私にはできない。途中携帯のライトでも付けることも考えたが、それも万が一見えざるものの足が見えたら…など馬鹿げた妄想により阻まれる。只管に携帯画面の地図だけを見つめ、20分程歩き続けた。ふと、開けた道に明るさが広がる。顔をあげると、そこ。漸く辿り着いた目的地だった。
思わず笑いが零れる。
やってやったぞ!この私が、臆病で優柔不断な私が、辿り着いてやったぞ!
人がいないのをいいことに万歳三唱。
鼻息を荒らげて、得意げな顔でフロントへと向かう。まるで一人旅に手馴れた人間であるぞとでも言いたげに、予約の確認を済ませた。部屋の案内を受け、鍵を受け取り、部屋へと向かう。
そして今。部屋にて、テレビを付け、冷蔵庫を付け、WiFiを繋ぎ、ベッドに転げる。
満足このうえなし。
然し本来此処に来たのは風呂に入るため。メインディッシュに心踊る私は、無論これから入ってくるつもりだ。
お酒は禁止されているが、今宵くらいは飲んでもいいのではなかろうか。なんて、駄目人間は健在。まぁ、それは追追考えていくこととする。
明日はガラスコップを割る。
これで私の最近全ての思惑が達成される。
楽しみだ。