海から帰った後。眠る前に綴じる日記。
前途多難ながらも、何とか海に辿り着いた私。そして、ガラスコップに言葉を綴った私。というのが、今日旅もどきを試みた私の成果。
以下に残すは、その成果の日記。誰に届けるわけでもないが。達成感を忘れないために日記の続きを書いておく。
まず、海は案の定、寒かった。
吹く風は強風だ。潮の匂いを纏う強風に水飛沫が霧となり我が身を襲う。そして何より海は、酷い。荒波に白泡を吹かせ、青や透明より黒に近い水が押して引いてを繰り返していた。やはり、都会の海は汚いものだ。
来る道自らの不幸体質(と思い込んでいるだけで結局は被害妄想だとは思う)を呪いながら何としてでもと息巻いて足を動かし、着いた海はこれだった。
傍から見れば、他者が聞けば、さぞがっかりしたろうと慰みの声を掛けたかもしらん。
然し、海を見た私にあったのは満足感と達成感であった。何かしらの勝負事に勝った後のように清々しい心地だ。きっとそれは自己満足というやつ。“諦めなかった”ことへの自己満足。
過去に繰り返した些細な挫折を積み上げ、そして緩やかに諦めを積んでいった私。崩れた精神をきっかけに諦めたくない自分を知ったと、密かながら歓喜していた私。そいつらを纏めて抱きしめ歩くための一歩を、今日は踏み込むことに成功したのだ。そう考えると、曇り空も汚れた海も吹き荒れる風も祝福に思えた。
自己満足の余韻に浸れば、早速適当な岩場に腰掛ける。リュックから取り出したのは、例のガラスコップとマジックペン。周囲には、散歩道として通りすがる人や時期外れに浜で燥ぐ若者がいる。本来ならば、私はその目を恐れて奇行たりうる行為はできないでいたが。この私は、誰を気にすることもなく、マジックペンの蓋をあけ、ガラスコップに油性の黒を押し当てた。
綴ったことは本当に下らない。
今まで買うことを恐れた煙草を買った、だの。
この海に辿り着いたということに満足した、だの。
コップに淡白な感想を綴る最中、結婚式場の鐘が鳴っただの。
他者の婚姻を祝う祝福の鐘は、そのときばかりは私の成果を称えているのだと錯覚できてしまったのだから恥ずかしい。
書く手は悴んで、文字は震えてきたなかった。長らく病んだ心で筆も持てなくなっていたが、今日は震えた文字も気にはならなかった。ある程度書き終えれば日付を記して、マジックペンをしまう。
それからそれからと、最後にリュックのなかから先程購入した煙草を取り出してガラスコップの横に添えてみた。
兎に角余韻に浸りたかったのだ。
暫くして満足しきった私は、帰るべく荷物を戻して、先来た道と異なる道を帰ることにした。以前のように悠々と外を闊歩できるのではないかと思えるほど、気分がよかった。
荒波の上に掛かる橋を通った際、飛び込み禁止の立て看板を見つける。何気に見下ろした海の姿に、「おお怖い…誰がこんなところから飛び込むものか」等と慄く己の心情に気づき、喜びを覚えた。
「死にたくない」「死ぬのが怖い」という当然の感性を取り戻していたからだ。
さらにさらにと帰りの道を歩いて、とある閑静な公衆トイレ付近。フェンスの近くで屯っている強面の若者を見かける。目があうと、若者の数人が立ち上がる。身が竦んだ私は、思わず駆け出した。そのまま早く人混みへ、都会へと、足は向かっていた。そのことに気づいて、さらなる喜びを覚えた。
「人混みに安堵する」「騒音が好ましい」という本来の私を取り戻していたからだ。
健常者からすれば馬鹿げた喜びかもしれないが、これが何とも私を喜ばせた。
とはいえ、やはり一筋縄とはいかない。都会を歩くほどに、家に近づくほどに、やはり背中を丸めてしまうのだ。病による冷や汗と動悸が戻ってしまう。
玄関の鍵穴を回す頃にはイヤフォンをして、首を竦めていた。
まだまだ先は長いとは、まさにこのこと。
だが、それでも今日は頑張ったと思う。成果はあったと思う。満足したと思う。
自分を褒めるべく、帰るや否や紅茶を入れてタルトを貪った。
よくやった。偉いぞ、私。
ここまで書いてみて、失笑した。
ああ、うん。日記もここまでにして、今日はもう眠ろう。
2021.10.17