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ガーシー落語家転身宣言と講談についての一考察

1.演芸界に衝撃、ガーシー落語家転身宣言

 
 ガーシー氏が落語家になる、と言って物議をかもしている。


 ※このニュースを基にガーシーが主人公の『ガーシー落語家になる』という講談も作りました。僕は落語という伝統芸能を心底すごい、と思っているので、その尊敬を込めた講談です。
『ガーシー落語家になる』↓↓


 さて、僕は氏のことをあまり好きではない。
喋りがどうにもせかせかとしすぎていて落ち着かないし、氏の武器であったゴシップに関しても知らない人の情報ばかりで特に興味をそそられることはなかった。

 そりゃあ紀州のドンファンの話とか、二階俊博の長男が何故御坊市長選挙で負けたか、とか上方講談協会分裂史などを「めくって」くれたのならば興味を持てたのだけれど、一向にそういうことはなかった。

 参議院議員になって、議会に出席をせず、国会懲罰委員会の鈴木宗男を怒らせたりしたことは感謝している。
やはり鈴木宗男が怒っているのとかは外野から見ていて愉快なものであるから。
怒りのとばっちりを食らう周りの人間は本当にたまったもんじゃないだろうけど。

2.落語より講談のほうが向いているのでは

 ともかくガーシーが落語家を名乗り始めそうな情勢なのだが、僕としては彼の人には講談のほうが向いているやうに思われる。

 落語というのは基本的に登場人物が八っつあんやら熊さんやら与太郎やらご隠居さんやらで限りなく匿名に近い。
熊、八、与太郎等名前は個人を識別する固有名詞ではなく、人物の性格類型を示す記号のような役割を果たしている。
だからこそ落語の台本、テキストというのは時代を経て錬磨され、驚くほど洗練されているし、数多お笑い芸人が「勉強になる」と言う。台本上の笑いが属人的ではなく、純なのだ。

 ともあれ、これはガーシーの今迄やってきた行いとはずいぶんと風合いが違う。
ガーシーの活動はどこまでも顕名。
「実名と行為をリアリティを以て結びつける」ことによって金を稼いでいた男である。
そして記事によると、師匠につかずに新作、創作の類をやっていくこということで、登場人物が殆ど匿名である落語という話芸は、これまでガーシーが積み重ねてきた経験や情報、手法との食い合わせが悪いと言える。
 

3.講談のガーシー性


 さあ、こう考えると講談である。
ガーシー、見事に講談の要素をそろえてきているのである。
落語が八、熊、与太郎であるのに対して講談の登場人物は、太閤秀吉、真田幸村、水戸黄門、大塩平八郎、安倍晴明、源義経…大いに顕名である。
どんなに小さい登場人物にも大体の場合名前が付与されており、一々調べたら実在だったりする。

 そういった者たちの武勇伝だったり、権謀術数、時には恋愛譚、失敗談、暴力、エロ、反道徳的な行為を描き続けてきたのが講談だ。
古典講談は要するにそういう話の中で観衆の反応が良いところを大げさにし、嘘を重ねて磨き上げ、現代に通じる強度を備えつつ残ってきたものなのである。

 顕名、大げさ、嘘もあり、暴力ありエロあり。
まさにガーシーの行ってきたことそのものなのである。
ガーシーはある種講談の要素を備えた男なのだ。

4.講談師にはなってほしくない


 まあだからと言ってガーシーに講談師になってほしい、とは全く思わない。
僕はやはり彼のことがあまり好きではないし、人を誹謗中傷あるいは名誉を毀損するような内容の講談をすることが、現在の社会において、未来に講談という芸能を繋いでいくことを考えた時に有用だとは思えない。

 あとはどうにも彼の人は反社会的で恐ろしいところがある。
今講談業界全体で120人くらいの講談師がいるんだろうか。その120人で受け止めるにはガーシーは悪名も負のパワーも強すぎる。
伯山先生を初めとする諸先輩方の奮闘と台頭で、講談に対する良い認知が世間に広まっている大事な時期だ。ガーシーという人を講談業界で引き受けることは難しいだろう。
 

5.まとめ


 しかし我々は忘れてはならない。
原初我々はガーシーだったのだ。
顕名で大げさで嘘をつきながらスキャンダラスに面白い話をしてきたのだ。

 そういう始まりを忘れず、しかし先人講談師たちが積み重ねてきた美しいかっこいい伝統も忘れず、どっちにも振り切らずに観衆の期待にこたえ続けることが、さらなる講談の発展と芸能の継続につながるのではないか、と、僕は思う。

 僕は最近わけのわからない政治家の講談なんかをして、若干ガーシー寄りになってきている感じもする。
よって古典講談をしっかり稽古、ガーシーすぎないように気を付けていく所存だと宣言をして、この文章の終わりといたします。

 
 
 


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