中国の伝奇小説と立川文庫
中国の伝奇小説が面白くてよく読んでいる。
日本語訳を読むのだけれど、不思議と文章から中国の空気が濃厚に伝わってくる。
面白い話も沢山ある。化け狐やすっぽん大王、仙人などが出てきて、気まぐれに人を豊かにしたり、殺したりしていくような話が多い。
今日読んでよかったのが、元泥棒の話だ。
ある県は貧しく、住人の7割が泥棒、ということになって警察のほうでも捕まえることができなくなった。
そこで、いったん泥棒の罪をすべて許して「元泥棒」の戸籍を与えることにした。
そして今後泥棒は決してしないように、と約束させる。無罪放免とした。これで治安が良くなる。
その後元泥棒は、一般市民よりも優遇される。
元泥棒に再び泥棒に戻られてしまっては治安が再び悪くなるから。
民事裁判でも判事が忖度をして元泥棒のほうに有利な判決が出る。
元泥棒に不利な判決が出ると、不利益を被った元泥棒が泥棒に戻ってしまうからだ。
こうなってくると、別に泥棒をしたことを無い無辜の市民まで「俺は元泥棒だ」と言い出すようになって…という話。
オチは、城に忍び込んでとらえられ、殺されそうになったキツネが「俺は元泥棒だ」という。
結構風刺が効いている。あと別に泥棒をしたことが無いやつまで元泥棒を名乗り始める部分がとても好きだ。
想像したものを土台に理屈をつけて、もう一段上の想像へ上っていく感じが楽しい。
日本の宇治拾遺物語も結構面白いけれどあれは凄くパステルカラーな世界観で、ふわっとしている感じがする。少しつつましやかだ。
中国の伝奇は驚くような想像力と、出現する異形の者の怪しさ、あと血なまぐささ、それでいて、昔話ふうの緩さ、そういったものが揃っていて独特の空気だ。
ある種、悪趣味なんだと思う。
でもそこが凄く好きだ。
なんだか先代玉田玉秀斎が遺した立川文庫に似ているのである。
さて、この記事を書くために少し調べてみると、この中国の伝奇小説の類が、大正年間にどんどんと日本語に訳され、翻案されていったそうだ。それをどんどんと掲載した雑誌がその名も「講談雑誌」。
それまで書き講談を掲載していたのが、伝奇小説を掲載するようになり、荒唐無稽ながらも文学性がある、と芥川龍之介らから評価を得て、当時隆盛を誇っていた荒唐無稽ながら幼稚である、との評価の立川文庫等に変わって大衆の人気を得た、ということだった。
この立川文庫、というのが我が講談玉田家の先代玉田玉秀斎のチームが作ったものだった。
つまり僕がいま読んでいるのは、立川文庫のライバルだったものだ。
立川文庫と勝負し、立川文庫がある意味で負けてしまった荒唐無稽を読んでいる。
しかし僕は2020年の男だ。
伝奇小説はもちろん、それ意外の荒唐無稽、物語、人情、笑い、様々なものにアクセスできる。という時代の力を享受している。
その力で立川文庫はアップデートできるはずだ。元々立川文庫は面白いし。
伝統芸能の強みだろうと思う。
それぞれの時代の今を生きる人間たちが、それぞれアップデートでき、それが財産として残っていくという。
この1年文字おこしをしまくって、覚えまくって、やりまくって立川文庫が好きなった。もう愛着、だと思う。
だから立川文庫を巻き返していきたい。
28歳で四代目玉田玉秀斎を面白いと思って、なにも知らずに入門志願して、たまたま出会った立川文庫というお宝の輝きを他の人に知ってもらえるお手伝いができればな。と思う。
その為にも面白いことが考えられる人間にならなきゃならないですね。