猿飛佐助《改悪版》①
虎は死して皮を残し、人は死して名を残す―
少年と同じ名の男が主人公の本の書き出しだ。
少年にはその先はむつかしくてわからない。しかしその書き出しだけは心に残った。そういうものか、と思った。
少年の父の持ち物のその本。父親の商売道具だったそうだ。
それを読むのが商売だった、と。父親は言っていた。
本を読むことが商売になる、というのが少年には不思議だった。バカな商売だ、と思った。
時は20XX年。長く続いた自民党支配が終わって久しく、政情は流動化。それとともに朝令暮改の明け暮れ。民心は疲れ、すさみ、治安の悪化へ著しかったが、世界が終わるほどのことではなく、それでも一応民主主義の続行が為されていた。
大阪。あべの。団地をリノベーションした集合住宅の最上階。
リノベーション当時はきれいなものであったが、行政の手当てはここ数十年行われておらず、あちこちで剥げるべきでない塗装が剥げ、崩れるべきではない構造が崩れ、腐ってはいけない土台が腐り、光っておいてほしい電灯は消えていた。
この団地に住む鷲塚佐太夫の息子で佐助、幼いころからその身体能力はまさに異常。跳躍力、瞬発力、ダッシュ力、すべてにおいて水準以上、いや、常人ならざる少年であった。
佐助はその身体能力を用い、ジャンジャン横丁でやくざをどついては逃走して遊び、スパワールドから出てきたカップルに、交番の上から小便をひっかけ、無暗に飛田を駆け抜けては動体視力を生かして嬢を盗み見、新世界を訪れたアジア人観光客の財布を掏ってはわけのわからぬホルモンを、天王寺の酔漢たちと食っていた。
当時佐助10歳、である。
「佐助、また中国人から金盗ってきたんか」
「せや」
「お前は偉い、国士やのう」
「おっちゃんホルモン食うか」
「おごってくれるんか」
「おう、おごったるおごったる」
「ポン酒もええか」
「ええで、店のみんなにホルモン、このおっちゃんにはポン酒。ひやでええな、僕コーラ、冷えたあるやつな、ビンのな」
「あいよ」
てなもんで良い顔である。
天王寺の酔漢たちは
「佐助はえらいなあ」
「ああ、えらい。あんなに足が速くて高く飛べる奴は見たことが無い」
「俺らに酒毒が回っているからあんなに早うに動いてるように見えるんやろか」
「いや、あれはほんまに早いんや」
「ほんまに早いと言うているお前にも酒毒が回っとるからなあ」
「いや、せやけど、ほんま佐助は偉いやっちゃ」
「せや、偉いやっちゃ」
評判も上々である。
さて、佐助の父、佐太夫は、きちがいであった。
佐太夫は佐助に言う「ええか佐助、これからは武の時代や。武こそあれば立身出世は思いのままであるで。武や、武」そんなことを呟きながら汚い部屋。特大のペットボトルに入った焼酎を、マグカップに注いでは飲んでいる。
佐助は思った「今の時代は武、か」と。
しかし9条平和憲法はいまだ健在、法治国家もその建前を残している。佐太夫の言うことが間違えであるとは言えないまでも、子供に伝えるにはモラルが無さすぎる。
佐助は6歳である。何もわからず佐太夫の言葉を信じた。
「武ぅせないかんで」
思いたった佐助。少年らしい行動力で向かった阿倍野霊園。
「やるで」
林立する墓を見て佐助、手近にあった卒塔婆を引き抜いたかと思うと、墓石に向かって
「ちええええええい」と打ち込みを始めた。
おりしも初夏。平日の昼間。阿倍野霊園には佐助以外には誰一人いない。
『園山家之墓』『荒川家之墓』『富田家之墓』…どんな墓だろうが関係ない。卒塔婆でどついてどついてどつき倒して、卒塔婆が折れれは次の卒塔婆を引き抜いて、次々と墓石に打ち付けていく。
「武ぅ武ぅ武ぅや、武ぅや」
怒鳴り散らしながら卒塔婆をふるっていると突如として聞こえてきた
「だはははははははは」
インタビュアー吉田豪のような笑い声であったが、佐助が振り向くとそこにいたのは吉田豪ではなかった。
白髪白髭、いかにも老師と言った感じの時代錯誤な老人であった。
「今笑ったんはおどれかい」
「そうじゃよ」
「人が一生懸命やってんのにな、笑うとかな、あかんのとちゃうか」
「一生懸命やっているやつのほうがおもろいやないかい、おふざけしております、一生懸命やってまへんねん、あほなことしてまんねん、みたいなやつと、一生懸命あほなことやっているやつやったら後者のほうがわらえるやろどうや違うか、お前も大阪の産やったらわかるやろ」
「よおわかった」
「せやな」
「で、なんの用やじじい」
「お前、武、やってるやろう」
「せや、武ぅしとる。オトンがな、武ぅが大事やと言うのや。せやからしよ思てな」
「よっしゃ、ほたわしが武、教えたろ」
「教えると言うたかて、あんたじじいやないか、武もくそもないやないかい」
「おお、そういうか。こういう偉そうなじじいは大体とんでもない力を持っていて強いもんやぞお前漫画とかアニメとかもっと見た方がええぞ」
「じゃかましいわい」
佐助、善悪の判断が苦手。
じゃかましいじじいは殴ったれ、という気持ちのままに動き出す。
持ち前の跳躍。一っ飛びでじじいとの間合いを詰めて、卒塔婆を脳天めがけて振り下ろす。
じじいの脳天から血が噴き出すかと思いきやこはいかに。卒塔婆は空を切ったのだった。
すると佐助の背後から
「ここじゃよ」
振り向くとそこにはじじいが
「だははははは」
吉田豪みたいな笑い方をしながら立っている。
「じじい、消えれるんか」
「せや、老兵はただ消え去るのみ」
「洒落てんちゃうぞ」
向き直った佐助、再びの跳躍。宙空で卒塔婆を振りかぶってじじいの脳天めがけて振り下ろす。
があん。音が鳴ったかと思うと、卒塔婆は空を切って石畳をたたいてぶち折れている。
後ろから「だははははは」という忌まわしい笑い声
「お前、じじい、一体何者や」
「戸沢や」
「戸沢…」
「どや、武、習う気になったか」
「しかして何者やねんな」
「それはまだ明かせんな。どや、俺に武、習うか」
佐助は思った。
―こいつはすごい武を持っている感じがする。習うべきかもしれん。
「よっしゃ、習う」
「ほた今日からお前は俺の弟子や。お前、名前なんや」
「なんやて、佐助や、佐助」
「佐助か。ええ名前やないかい。よっしゃわしの全てをお前に教えたろ」
「全部入らんわ。ええとこだけ教えてくれ」
こうして戸沢と名乗る謎の老人の元で、佐助の修行が始まることになったのである。