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日常ブログ #42なす




九月に入り、ようやく夏の終わりらしい涼しい風を感じられるようになってきた。

皆さんはいかがお過ごしですか。
私はぼちぼちです。

最近は季節の変わり目というのもあって、段々日が短くなっていくこととか、夜に少し冷えるなと感じることに、そこはかとない寂しさのようなものを感じることがある。
実は、私は四季のうち夏が一番好きなのである。
近年の夏は命の危機を感じるくらい暑いが、日中外出をしなければあまり関係ない。
日が長いからたくさん遊べるし、洗濯物も早く乾く。
それから、これは個人的な感覚だが、夏のギラギラした強い日差しがそうさせるのか、あらゆるものが眩しく照らされて景色ごとハツラツ!としたエネルギーに満たされている感じがする。
そういう日は、窓から外を眺めているだけで活気がみなぎってくる気がするのである。
多分思い込みだろうが。

とにかく、夏の良いところはたくさんある。
だが、何も夏にまつわる全てを好ましく思っているわけではない。
人間だって季節だって完璧にはなれない。
いくら好きな季節だって苦手なところの一つや二つあるものさ。

その一つ二つの筆頭となるものが、なすである。


なす。
それは、私の苦手な食べ物。
積極的に食べたいとは言わない食べ物や、未知すぎて手が出ない食べ物なら数多くあれど、はっきりと苦手と断言する唯一の食べ物。
なすが好物な方がいらっしゃったら大変申し訳ない。
だが、あの毒々しい色、ぬめっとした食感、何ともいえない風味、残念なことに私はなすのなすっぽいところに美味しさや魅力を感じることができなかった。
あと、昔読んだ本に洞窟の奥に財宝を隠してそれを狙って来た人間を食べることで超肥大化したヒルのモンスターが出てきて、フォルムとか色がなすみたいだなと思ってから一気になすがダメになった。

そんな好感度が食べ物部門において最低ランク帯に位置しているなすであるが、なすの旬は、夏なのである。
スーパーのお惣菜レーン、レストランのメニュー、テレビのおかずレシピ紹介コーナー。
夏になると至る所でなすの姿を目にする。
その上、なすはカレーだったり、中華料理だったり、味噌汁だったり、私の好物にばかり入り込んでくるのだ。
私だって食べれるものなら食べたいさ。
でも、焼こうが煮ようが刻もうが、どうしてもなすの味を探し当ててしまう。
私の優秀な味覚が、一度食べて苦手認識した味を忘れてくれないのである。
身体機能、この野郎。
「意識しすぎ〜」とか、「実は好きなんじゃない?」とか、内なる声が聞こえてきそうである。
やめてくれ、本当勘弁してくれ。
そんなんじゃないんだ。
こっちはただでさえ暑さで食欲が減退しているのに。

このままではダメだ。
このままなすに対する苦手意識が増幅していけば、夏のイメージがなすに吸収され、なすごと夏が苦手になってしまう。
あまりにも不健康すぎる。
これは過度に接触を避けるあまり己の内で勝手なイメージが膨れ上がり、それが苦手意識に反映されているのではないか、と、私は考えた。
そりゃそうだ。
なすは洞窟の主じゃないし人間を捕食しない。
それに実家だと甘やかされていて、食卓になすが出たら親に代わりに食べてもらっていたこともあり、最後にがっつりなすを食べたのがいつなのかもわからない。
だがしかし、今、ここは大魔境、東京。
そんなチート技はもう通用しない。
タマよ、大人になって好き嫌いなんてみっともないぞ。
それに、こんなに夏になると世間がなすなす言ってるってことは、夏のなすってすごい美味しいのではないか。
もしかしたら今までは出会い方が良くなかっただけで、全然違う食べ方や調理法をしてみたら、私たちは仲良しになれるのかもしれない。
そう考え、私は今年の夏はなすと和解することに挑戦しようと決意した。


そして試練の時は来た。
すぐに来た。
姉特製カレー+夏野菜(焼きなす1/2個)。
最初にして最大の壁である。
もうちょっとこう、ステップアップみたいな感じで、少量からはじめてみようと思ったのだが。
今カレーの上に横たわっているのは、香ばしい香りを放っているのは、純然たるなす。
ちょこざいな小細工でごまかしごまかし克服しようと思っていた浅ましさを一蹴するかの如く、目の前に鎮座する、圧倒的なす。
思わず気圧され、なすを後回しにして迷っているうちにカレーを食べ切りそうになってしまう。
しまった、カレーと一緒に食べて味を誤魔化すつもりが、美味しかったので単体で食べ進めてしまった。
気持ちばかりの小さい一口を口に運んだが、食べたのか食べてないのか自分でもわからないくらいの量である。
ここが実家なら、摘んだような小さい一口分を食べたらあとは残りを請け負ってもらっていたのだが、そう、ここは東京。
姉は残しものを見逃さず、「もう少し食べなよ。」と言う。
その通りだ。
せっかく作ってもらったのに残すなんて、食材にも作った人にも失礼である。
しかし、このなすがなすであることを全面に主張した、ありのままのなす料理を正面から受け入れるには、私はあまりにも弱かった。
既に八分目くらいのお腹の充ち具合だが、カレーを一皿おかわりして、かねてよりの一緒に流し込む作戦を決行するしか手の打ちようがなかった。

意を決し、一口食べてみて、なすだなと思う。
以前食べた時の感想と変わることはなく、やはり見た通りになすである。
無心でカレーとなすを一緒に口に運び、咀嚼する。
不思議な気持ちだ。
私が必死になって食べているなすを、嬉々として好む人もいるのだ。
その人にとっては、夏は食卓がなすで満たされる素晴らしい季節なのだろう。
逆に考えてみよう。
私はさつまいもが好きで、毎年秋になると街のいたるところにさつまいもを感じられて幸せに思う。
その反対に、さつまいもが苦手な人もいる。
その人は街中でさつまいもをみかける度にソワソワしたり、ホクホクの甘煮を必死に白米でかきこんだりしているのだろうか。
私は、夏の一お楽しみ要素であるなすが苦手で美味しく食べられないことが恨めしく、私が食べられないなすなど認めないと思い、克服を決意した。
だが、同じような気持ちをさつまいもに向ける人もいるのだと思うと、溜飲が下がるような気持ちになる。
なすは美味しい。
栄養もあるし、色んな調理法で食べられて汎用性が高いし、人気もある。
だが、その美味しさを受け取るのは私ではない。
なすの美味しさは、なすを好きな人、食べたい人のものである。
なすを食べたい人の元に、なすが届いて欲しいと思う。
だから私は、わざわざ苦手なものを克服しようとしなくても良い。
なす好きな人たちにとってなすのある夏を、ただ隣人として祝福すれば良い。
ただそれだけのことだったのだ。
みんながそれぞれに、食べたいものを食べられたらそれで良いじゃないか。
これは、今日思い切ってなす食べてみなければ気づけなかったかもしれない。
そう思いながら、私はなすの三分の一を食べ切り、スプーンを置いた。
姉は三分の二は許してくれた。

なすと仲良くはならなかったものの、悪いイメージや劣等感を払拭してなすを受け入れ、和解するという目標は達成した。
別れもまた和解である。
もうどこかでなすを見かけてナーバスになることもないだろう。
来年以降はより夏を楽しめる気がする。
そして、もう今後は丸焼きみたいななすはなるべく控える方向でお願いしたい、と思った。

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タマ
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