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日常ブログ #10Tシャツ







最近、関東が梅雨入りをしたらしい。
それもそのはず、どうも近頃天気が難しいと思っていたのだ。

晴れたかと思えばすぐに雨模様になったり、
気温が低くても湿度があって暑苦しかったりする。
そうなってしまうと、服装を考えるのが一苦労なのである。

私はTシャツが好きで何着も持っているのだが、
今シーズンラストとなるかもしれないお気に入りのロンTを着納めるべきか、
今シーズン初出しとなるお気に入りの半袖Tシャツを卸すべきか、
出かける前にしばらく悩み込む。

そうして熟考を重ねた結果、
ロンTを着ていけば暑くて袖を捲り、
半袖を着ていけば寒くて体調を崩したりする。
人生はあまりうまくいくものでもないことを、この季節の変わり目に学ぶのである。

私は、夏場は基本的にTシャツしか着ない。
上京して初めての夏あたりに、夏に着るものはTシャツだけじゃないんだと知ったくらいなのだが、
あくまで好きで着ている。
これがマイスタイル、つまりswagである。

自惚れは置いておいて、とにかく昔から何となく好きだったTシャツだが、
毎年夏になる度に少しずつ変わっていくクローゼットの面々を見て感慨深い思いになる。
長く着ている馴染みのものもあれば、新参がまだ居心地悪そうにハンガーにぶら下がっていたりする。
いくら大のお気に入りであれ、古くなってしまえば現役を引退し、手元を離れるのは当たり前で、
何かと別れることで新しい出会い、新しいTシャツを受け入れるスペースを確保できるのである。
一生における出会いと別れを、この衣替えに学ぶのである。


今日は色んなことを学んでいる気がする。

しかし、いつになっても、何年経っても、
名残惜しい、忘れ難い別れも確かに存在する。


そのTシャツとの出会いははっきりとは覚えていない。
たしか、元々いとこが持っていたものを、祖母の家に行った際にもらったのではないかと思う。

今はもうない、ディズニーシーの夜の水上ショー『ブラヴィッシーモ』のイメージを前面全体に存分にあしらった、
半身が水面柄、半身が炎柄の鮮やかなグラフィックプリントが印象深い、
衝撃的なTシャツがそれだった。

私はそのTシャツを一目見て気に入った。
その絶大なインパクトを放つビジュアルから、そのTシャツは家族内でブラヴィッシーモと呼ばれた。
見たまんまである。

当時小学生だった私は、早速ブラヴィッシーモを学校に着ていこうとした。
が、母に止められ、パジャマとして毎晩ブラヴィッシーモを着ることにした。
着心地も良く、着ながらずっと眺めていたい、素晴らしいデザインだった。
ブラヴィッシーモを着ているだけで、何だか誇らしいような、朗らかな気持ちになることができた。

そうして、ブラヴィッシーモを着続けて数年が経った。
成長期だった私は、もうとうにブラヴィッシーモが許容できる範囲の体格を超えていた。
また、気に入りすぎて着倒したあまり、かなりよれたり汚れたりしてしまっていたのである。
とてもこれ以上着られる状態ではなかった。
私はブラヴィッシーモと別れなければならなかった。

しかし、私はブラヴィッシーモとの別れを受け入れることができなかった。
母に何度、今日着たらそれで終わりにしなさい、と言われても、
頑なに洗濯機にブラヴィッシーモを入れ続けた。
乾いたらまた着た。
ブラヴィッシーモはより痛んでいった。
ブラヴィッシーモを守るため、ブラヴィッシーモを着続けたが、
それがブラヴィッシーモを苦しめることに気づかなかったのである。

そして、別れは突然やってきた。

ちょうどその頃、今のように初夏のある日、
私は学校の宿泊学習から家に帰ってきた。
本当は寝巻きでブラヴィッシーモを持っていきたかったが、
自分でも認めるほどあまりによれよれのTシャツ、いや、よれよれのブラヴィッシーモなので、
別のTシャツを持っていっていた。
それがブラヴィッシーモへの裏切りのように思えた私は、
一早く家に帰ってブラヴィッシーモを着て、安心したかった。

しかし、いつもブラヴィッシーモをしまうはずの箪笥に、ブラヴィッシーモがない。
洗濯物の中にもない。
どこにも見つからない。
私はこういった探し物はめっぽう苦手だ、しばらくしてからもう一度探してみよう、
と、私は考えた。

丁度その時、母が私に、台所からボロ布を取ってほしいと頼んだ。

台所の引き出しには、古くなった洋服やタオルなどを切って、
使い捨ての雑巾のようにストックしておいてあり、それらをボロ布と呼んでいた。
母の頼み事通り、私はボロ布が入っている引き出しを引いた。

その時、私の目に映ったのは、炎。
ブラヴィッシーモの半身の、見慣れた炎柄である。

私は一瞬、言葉を失った。
自分が目にしているものが信じられず、ボロ布を一枚めくった。
するとその下から現れたのは、ブラヴィッシーモもう一方の半身の水面柄であった。
私は一心不乱にボロ布をめくり続けた。
どうか間違いであって欲しいと願った。
しかし、極め付けには、ブラヴィッシーモの中央に鎮座する、ミッキーマウスと、目が合った。合ってしまった
顔の部分で見切れて目しか見えないミッキーマウスである。
あんなに悲しいミッキーは、後にも先にもあれ一回きりである。

私は愕然とした。
そして、深い喪失感に襲われた。
今目の前にあるのは、正方形に切り取られた、変わり果てたブラヴィッシーモの姿。
一心同体となって喜びを分かち合った友の、原型を全くとどめない姿。
あまりに突然でシュールなブラヴィッシーモとの別れに、私はただ驚くことしかできなかった。

しかし、ブラヴィッシーモのためには、これで良かったのかもしれない。
あのまま私がブラヴィッシーモを着続けていたら、どこかで必ず限界が訪れていただろう。
ブラヴィッシーモの衰えや痛み、よれ、汚れ、穴等に気づかないまま、いつまでも新品感覚のまま、
ブラヴィッシーモが布としての新しい道に旅立つことができたのであれば、
それが何よりだと思う。
そして、ブラヴィッシーモがそうなる姿を直接見たくはなかったというのも、
また本音なのである。

結局、あのような形での別れが、最も良かったのでないかと、
未だに思い起こすことがある。


現在でも、私のクローゼットの中にブラヴィッシーモがいないことを残念に思う。
同じデザインのTシャツは探したら見つかるかもしれないが、
ブラヴィッシーモでなければ意味がない。
私がブラヴィッシーモを着て、ブラヴィッシーモと共に過ごした記憶こそが、
ブラヴィッシーモをブラヴィッシーモたらしめるのである。

いつかはブラヴィッシーモを超えることのできるTシャツに巡り会えるのだろうか。
いや、そんなことは不可能かもしれない。
だって、ブラヴィッシーモを超えるインパクトのあるデザインを見たことがないから。
本当に時代とインパクトしか感じないくらい刺激的なデザインなのだ。
それが最高にかっこよかった。

もしも、いつかまたブラヴィッシーモに出会えたら、
その時は、ひたすらに着まくったりせず、頻度を考えながら着たいと思う。
ブラヴィッシーモだけでなく、服一着一着により愛着を持って、
丁寧に、大切に着ていきたいと思う。

そんなことを考えながら、私は今日もTシャツを着ている。


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タマ
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