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幼稚な大人。不幸な子ども。
※この記事は教員、教員を目指す人向けに書いています。
「教員は一挙手一投足が『教育』になっているか常に考えましょう」
という話
大人に幼稚性が残るとどうなるか
学校は子どもの健やかな成長のために存在する。
だから前回、学校の対応に苦言を呈した。
では、家庭に幼稚性が残るとどうなるか。
過剰サービスは家庭をダメにする
幼稚性は他責思考だと述べた。
他責思考とは問題の原因が他者にあると考える思考をいう。
つまり、責任転嫁をする家庭が増える(=お客様化する)のだ。
もちろん責任を転嫁する先は、学校である。
「この子が忘れ物をしたのは先生が連絡帳に書かせなかったからだ」
「この子が勉強ができないのは授業がつまらないからだ」
「この子が〇〇なのは学校(先生)のせいだ」
さも失敗の原因が100%学校にあるかのように考える。
たしかに学校に非がある場合もある。
しかし家庭には子の教育に対する第一義的責任がある。
長い人生の中で子どもと一番多く関わるのは親(保護者)だ。
その親(保護者)が「子どもの教育についての責任は全て学校にある」と考えてしまう弊害は「おして知るべし」であろう。
子は親を見て育つ。
他者を攻撃している親(保護者)を見た子はどうなるか。
自分の行動に責任を取らず、他者に押し付ける姿を見続けた者はどうなるか。
教員による過剰サービスの弊害はすベて子に降りかかるのだ。
教員は驕るべからず
では学校に責任がないのかといえば、そうではない。
責任はある。
小学校6年間、中学校3年間、高校3年間、それぞれ心身ともに発達する大切な時期に関わる大人として、責任重大だ。
しかし言ってしまえば「その期間だけ」なのだ。
その期間にできることしかできないし、卒業後のことに責任を持つこともできない。
だから間違っても
「自分がこの子を立派にしなければ!」
なんて思ってはいけない。
そんなことできないし、ただの自惚れだ。
子どもが、一人の人間が、一教員が少しの期間関わっただけで、大きく変化することはない。
私たち教員は、その子の健やかな成長を願って試練を課し、時には見守り、時には励まし、時には共に闘えばよいのだ。
そしてその成長を誰よりも喜べばよい。
そして、子どもの成長を「自分のおかげだ」なんて思ってはいけない。
成長できたのはその子自身の決断と行動の賜物なのだから。
教育ってむずかしい
良かれと思ってやったことが、見方や受け取り方によって「悪いもの」になることがある。
教育も同じだ。
だからむずかしい。
だから自身に問い続けなければならない。
「あなたがしたこと、その子のためになってますか?」
バーイ(o_o)ノ