教会に行けないクリスチャン その1
コロナ禍に突入して3年という時間の中で、私の教会のミニストリーにも制限がかかり、日曜日の朝の日曜学校と礼拝だけが対面で続けられたが、複数あったゴスペルミニストリーは全て休止。日曜日午後の比較的カジュアルな第二礼拝も休止となった。
完全リモートになった教会もかなりあるし、教会活動自体が休止または閉鎖に追い込まれたケースも耳にする。
それを考えると、キリストの御からだとしての活動は止まることなく継続され、恵みの内を歩ませて頂いているなと感謝に絶えない。
とはいえ、このタイミングで教会から離れた人たちも多い。
私は個々に確認をとりつつその殆どの人たちには毎週の礼拝の録画を送り、希望する人には日曜学校成人科クラスの録画も毎週見られるようにして、キリストとの、そして教会との繋がりが途絶えないように祈ってきた。
しかしコロナがインフルエンザと同じ扱いになって社会活動が通常化した現在も、来なくなった人は戻って来ない。
教会は殿様商売
その理由は人それぞれかも知れないし、単純明快なものでもなく複合的な要因が絡んでいるようだ。
教会に来なくなったうちのある人たちとは定期的に会って近況を聞くようにしているのだが、この人は歯に絹着せずハッキリ物を言ってくれるので良い気づきを与えてくれる。
この人がある時ボソッと言ったひとこと。
「教会って殿様商売だよね。」
これを聞いた時、自分の立場を忘れて思わず名言だと思ってしまった。言い換えると、
「来たいヤツは日曜日の10時半来い。でもその日時に来れないなら仕方ない。諦めろ。」
そう言って長年やってる老舗みたいなものだ(苦笑)。
日曜日の朝集まって礼拝することの意義は、聖書から紐解いてちゃんと説明出来る。
でも人がこの世で生きて行くには様々な制約がある。日曜日に働かなければいけない職業はたくさんあるし、病気の人、高齢者など物理的に出かけることが困難、不可能な人もいる。家庭の事情で反対にあっている人もいる。
それに教会内の人間関係や、牧師に躓くこともある。
コロナ禍によるオンライン礼拝の発達は、この殿様商売の負の側面を埋める効果を一定程度果たしているのかも知れない。
しかし実際教会では、毎週の主日礼拝を欠かさず、奉仕もしっかりしている人が尊敬され、役員などの働きを担うことになるわけで、教会の主日礼拝に実出席出来ない人は置いてきぼりにならざるを得ないのだ。
また真面目なクリスチャンほど、健康な人に対しては聖書を用いて正論で
「主日礼拝を第一にしなければならない」
ことを説き、圧をかけてしまいがちなのだ。
たまに行くと面倒くさい
またある人の告白。
意を決して久しぶりに主日礼拝に行く。すると幾人かの“良いクリスチャン”が近くに集まってくる。
「久しぶりー 元気だった?」
ここまでは良い。
「痩せたんじゃない?(太ったんじゃない?)」
別に変わってない。
「顔色悪いわね。ちゃんと食べてるの?」
特に体調悪くないし普通に食べてる。
「ダメじゃない。礼拝にちゃんと来なきゃ。」
普通だとわかるとなぜか説教される。
みんな良い人であることはよく分かっているから無碍に出来ず、曖昧に笑って話を合わせて謝るしかない。
解放された頃にはドッと疲れて、もう面倒くさい!もう行かない!と決意して帰る…
善魔
昔読んだ遠藤周作のエッセイに「善魔」という言葉があった。それがとても印象に残っている。
こう考えてみると、クリスチャンという人種は、より「善魔」になりやすいのではないかと思う。
私は既存の地域教会が世界中に建てられていること、そこに集い礼拝を聖徒たちと共に献げることは神の御心に適い、聖書的だと信じる者である。
しかしイエスが「すべて重荷を負って苦労している者はわたしのもとに来なさい」(マタイによる福音書11:28)と仰っている以上、礼拝はすべての者に開かれていなければならないと思わされている。
それには様々な障壁を乗り越えて日曜日の朝に教会に行かなければ礼拝出来ない、という状況を何とかしないといけないのだ。
私などが気づく前に、日に複数回の礼拝を設定したり、平日の礼拝を設けたり工夫をしている教会はたくさんあることも知っている。
でもそれにはマンパワーが必要。しかしそんなに人材豊富な教会は殆ど日本にはない。
今回書いた事例以外にも、コロナ禍の3年を経た中で気付かされた、また違う意味で「教会に行けないクリスチャン」のことについて、次回書いてみようと思う。