4月、新たなる日常
4月といえば、新生活が始まる季節。
私はこれまで通りの生活で特に変わりない予定だったのだが、3月に母親が亡くなり、期せずして新しい生活の始まりとなった。
新たな日常に慣れるために
新しいといっても、やることは母が入院していた時から同じような感じなので、急にガラッと変わったというよりその延長みたいな感覚だ。
ただ大きく違うのは、これからはその状態が日常になるということ。母の入院中だけ頑張ればよかったのとは訳が違う。もちろん気持ちの面も。
なので、今月はとにかく自分なりの「続けやすい」を探す日々になった。
料理だと、最初は大量に作り置きできるレシピを見ては手当たり次第つくってたけど、これずっと続けんの無理だわ…となり。そこからは自分にとって何が楽かを一番の基準にしてつくるものを決めるようになった。
たとえば、一つはほったらかしにできる工程があるものにするとか、使う調味料が少ないものにするとか。
掃除は、個人的に水回りはちゃんとしたいけど、他は具合を見ながら。ゴミと一緒に「毎日これ全部やる」をポイ。
とまぁ、あれこれ試しながら、とりあえず「お母さんのいない世界」の日常には少しずつ慣れていっている。と思う。
どこかふわふわした日々
けれど、いま大丈夫だから明日も明後日も大丈夫だと言い切る自信はない。いつ悲しみや虚しさの波が来て心が折れるかも分からない。わりと警戒して生きている。
特に4月のはじめの方は、あれもこれもとなんだか生き急いでいる感があったし、今もそういう時はある。
おーおー、ちょっと飛ばしすぎなんじゃね?そう焦るなよ。と、心に飼ってる少年に言わせたりしている。
そして、周りの日常はびっくりするぐらい何事もなく進んでいく。自分の生きている世界はガラリと変わったはずなのに、いつも通りにゴミの日は来るし、近所のスーパーも電車も職場も何もかもいつも通りだ。
母の死は私にとってはとてつもなく大きなことだけど、大多数の人間にはまったく関係のない、世界の片隅で起こったちっぽけな出来事にすぎない。
そのギャップに呆然とする日もあれば、変わらない景色があることに安心する日もある。違う世界になったはずなのにいつも通りがあるということに、不思議な感覚を覚えることもある。
各方面から、落ち着きましたか?と声をかけてもらうことも多々。でも正直なところ、何がどうなったら落ち着いたというのか自分でもよく分からず、まあ少しは…と歯切れの悪い返事しかできないでいる。
そういうわけで、「新たなる日常」とは言ってみたものの、まだまだ非日常を生きている状態なのかもしれない。
ささやかな喜びを忘れずに
それでも、そんな日々の中に小さな楽しみはちゃんとある。
母が植えていた庭の花の世話をするようになって、花を観察する楽しみができた。つぼみができたり、花が咲いたりするとこんなにも嬉しいものなのかと思う。母が「見て見て!」と子どもみたいに言っていた気持ちが今になって分かる。
あと、キーマカレーづくりが楽しみになったし、地味にカレー屋巡り計画を始動させている。
色々あるけど
きっと今、母の死という大きな変化を経てそれが日常になっていく途中。突然虚しさや悲しさに襲われることもあれば、嬉しいことや楽しいこともある。なんかよく分からんという感覚も大きい。情緒不安定ともいえるし情緒豊かだともいえる。
どちらにしろ、全部わたしの気持ちであることに変わりはない。
この先の自分の精神状態は知る由もないし、今はまだ知らない感情が渦巻いてくるかもしれない。けれど、それもこれも全部まるっと受け入れながら毎日を生きていけたらいいのかなと今は思っている。