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生まれてはじめて救急車を呼んだ日の話
【はじめに】
この記事には、病気や人の生き死にと関わる話が出てきます。苦手な方、そういう気分でない方は、ここで閉じてください。もし読もうという気持ちになったら、そのときに戻ってきていただけるとうれしいです。
🌙
2年前の1月9日、28歳の私は生まれてはじめて救急車を呼んだ。
その日は夕飯のあと、ぬくぬくこたつに入ってアニメを観ながら、母が風呂からあがるのを待っていた。いつも通りの夜だった。
ふと、聞き慣れない音がした。
どうやら浴室からの呼び出し音みたいだ。どうしたんだろう?押し間違えたのかな?しぶしぶこたつを出て、台所にある給湯器リモコンの通話ボタンを押して声をかけると、母が何か言っている。でも、何を言っているのかよく聞こえない。
脱衣所まで行って「何?」と声をかけると、やはり浴室で母が何か言っているけど聞き取れない。「開けるよ?」ためらいながらドアを開けた。
すると目の前には、全身が震えて身動きがとれなくなっている母がいた。
ガタガタ震えながら浴槽につかまっている。何を言っているか分からなかったのは、口がガクガクしてうまく話せなかったからだ。
何が起こっているのかわけもわからず、とにかくまずは母を浴槽から引き上げた。その体はびっくるするほど痩せ細っていた。母は癌の闘病中だったが、ここまでとは思ってもみなかった。
寒がっているようだったので、母の体にバスタオルをかぶせ、着替えをつかんで、急いでヒーターの前につれていく。
タイミングの悪いことに、父は実家の用事でしばらく家にいない。私が何とかしなきゃいけない。震えが止まらない母を見ながら、動転した頭を必死に回す。
これは救急車、呼んでいいんだよね……?
救急車を呼ぶべき基準がわからない。様子を見たほうがいいのか?でも、明らかにおかしい。何より、母をこのままにしておくわけにはいかない。
そうして私は、生まれてはじめて119を押した。
落ち着いて、冷静にと自分に言い聞かせながら事情を説明するものの、声に、話し方に動揺がにじみ出る。自分でも、焦っているのが嫌というほどよく分かる。
向こうからの質問にも、しどろもどろになった。年齢?いくつだっけ……。通っている病院は分かるけど、何科だっけ……?
こんなにそばにいておいて、私は母のことを何もわかっていないじゃないか。その事実だけが突きつけられ、情けなくなった。
当然ながら、119の向こう側はびっくりするぐらい落ち着いている。それだけが唯一の救いだった。落ち着いている人がこんなにも頼もしく思えたのは、はじめてだったかもしれない。
そして、救急車の音にこんなに安心したのもはじめてだった。
またもやしどろもどろで救急隊の人に事情を説明し、母とともに救急車に乗り込んだ。よっぽど慌てていたのだろう。戸締まり、電気、火の元だけは確認したものの、真冬にジャージだけで家を出てしまった。
救急車に乗せられ、ひとまず母の痙攣は止まったけれど、40℃の高熱で脈が速いらしい。何が起こっているのかは、誰にも分からない。癌治療で通っている病院がコロナ禍で混雑していて受入れを取りつけるのに時間がかかり、しばらく待ってやっと救急車は出発した。
病院についてからも、ずいぶん待った。
熱がある母はコロナの可能性もゼロではないということで、家族の私は待合スペースに行く前に小さな待機室に閉じ込められた。密室にぽつんとひとり。ひどく長い時間に感じた。
ようやく職員さんが呼びに来てくれて、診察室の待合に通された。周りにも数人、同じく救急搬送された方の家族らしき人たちがいる。みんなちゃんとした服を着てコートも持っている。仲間だと思ったのもつかの間、急に自分がみじめに思えた。
そこからもまた長かった。
先生が説明に来ると言っていたけれど、いつになったら来てくれるのか。お母さんは大丈夫なのか。これからどうなってしまうのか。
不安で仕方がなかった。でも、今はそれに引っぱられちゃだめだ。そう言い聞かせた。いつもはひとりが好きなのに、こういう時のひとりはとてつもなく心細い。
救急車を呼んでから3時間以上。ただひたすら待った。とっくに日付をまたいでから、ようやく呼び出された。
診察室に入り、たくさんあるカーテンの一つに案内される。カーテンを開けると、点滴をして横になっている母がいた。母はちらりとこちらを見ると、何も言わずに寝返りをうって眠ってしまった。ひとまず落ち着いたようで、すこし安心だ。
先生からの話では、腎臓の内側にある腎盂(じんう)というところが炎症を起こし、菌が全身にまわって熱と震えが出た可能性が高いとのことだった。
一晩経過を見るということで、母は急遽入院することになった。そこからは、もろもろの説明を受け、ひたすら書類に必要事項や同意の署名を書く作業。
手続きを終えたころには、もう深夜2時をまわっていただろうか。救急車で来たはいいものの、帰る方法を考えていなかった。受付にあったタクシー会社のリストの上から順番に電話をかけ、なんとか深夜営業をしているところにつながってようやく帰路についた。
ここまでのドタバタが嘘かのように、外はびっくりするほど静かな夜だった。
あれから何時間たっただろう。やっと家に帰ってきた。疲れ果てた私は、玄関で泣き崩れた。そして、わんわん泣いた。それはもう子どもみたいに。
なぜ母ばかりがこんな目に遭わなければいけないのか。母が何をしたというのか。神様を恨んだ。
代われるものなら代わりたかった。痛めつけるなら私にしてくれと思った。
母がどこかに行ってしまう。癌が見つかってから、遅かれ早かれそのときが来ると分かっていたつもりだったのに、急に現実味を帯びてきて、怖くて仕方なかった。
そこから布団に入ったものの、寝たのかどうかよくわからない。そんな状態で朝を迎えた。
まずは父親にメールを送った。その文面は驚くほど冷静で、起こったことと今後の予定を淡々と説明し、読んだら連絡するように指示を出していた。怖かったとか不安だとか、私の気持ちを伝える言葉は一つも入っていない。
そのあと病院から連絡をもらい、私は何時間か前にいた場所にまた戻った。
ひとまず担当の先生から説明があるということで、診察室に通された。昨晩も聞いた通り、今回の症状は腎臓の炎症で、尿がうまく排出されずにたまった細菌が全身にまわったらしい。これは手術で処置できる。
問題はそこからだった。尿の通りが悪くなったのには、治療中の癌が絡んでいる可能性があると告げられた。腹膜に転移していれば、十分にありえる。癌が急に進行して全身に広がっているかもしれないと。
聞きたくなかった。そんなことあるわけない。そう思いたかった。でも、否定できる根拠は何一つ持ち合わせていない。それは痛いほどよく分かっていた。
重たい気持ちを引きずりながら、私は母のもとに向かった。数時間ぶりに会った母は、思ったより元気そうだ。その安心感と、さっき聞いた話の絶望感との間で、私の心はどうかしそうだった。
このあと、母は別の病院にうつって手術を受けることになった。今いる病院はコロナ禍ということもあって満床。癌治療でずっと通っているからといって入れてもらえるわけではなかった。
一緒に介護タクシーに乗って移動し、新しい病院で一緒に手続きをした。このときはもう、一緒にいられるというだけで安心だった。
そして手術は無事に終わり、1週間ほど入院して母は家に帰ってきた。
🍃
この出来事から2ヶ月ほどして、母はこの世を去ることになる。結局、このとき先生から聞かされたことがすべてだ。癌が思った以上に進行していた。この日のことは、その一端でしかなかった。
長々とこんな話をしてきたけれど、これで何かを伝えたかったわけでも、わかってもらいたかったわけでもない。自分でもこれを書くことに何の意味があるのか分からないまま、ただなんとなく書いておきたい気がして書いた。
私のなかでまだ過去になりきれていないこの出来事を、心にずっとこびりついているこの出来事を、書いて自分の外に出したかったのかもしれない。そうすれば、多少なりとも心が軽くなるんじゃないかと思って。
あるいは、この日に自分が何を思っていたのか、形として残しておきたかったのかもしれない。このときのことは、起こった事実を話したことはあっても、自分の気持ちを誰かに話したことはなかったから。
ここまで読んでくださった方がいたら、そんなことに付き合わせてしまって申し訳ない気持ちもある。でも、それ以上に感謝を伝えたい。
私の思いをここまで読んでくださり、ありがとうございました。
どうか大切な人と、大切な時間を過ごせますように。