ドーナツの穴は、ドーナツがないと存在しないのか?
今朝、こんなことを呟いてみた。
そしたら、こんなお返事が。
なんだかうまく言葉にできないけれど、「幸せだなぁ」と感じた朝だった。
それで、ちょっとだけドーナツの穴の話を膨らませたくなったので、noteに書いてみようと思う。(ああ、ドーナツ食べたい。でもお腹痛い。)
ドーナツの穴とは
私は、ドーナツの穴を「存在しているのかしていないのか曖昧なもの」のメタファーで使っている。もうちょっと言うと、「存在させようと思って存在させたわけではないもの」というニュアンス。めちゃめちゃたま語で表現してみると、未知と知の狭間の空間。
現実でいうと、「戸惑い」とか「揺らぎ」とか「葛藤」とか。いずれにしても微妙な存在。(ここでいう微妙とは、趣深く、何ともいえない美しさや味わいがあること:コトバンクから)
その微妙な存在は、確実性が高い「ドーナツ生地」がないと存在が明らかにされないのか、という問いを抱いた。
つまり、揺らぎとか葛藤は、明確な言葉や行動などのアウトプットでしか存在が認識できないのか。その微妙な存在を、微妙なまま感じ合うことはできないのか。という問いを抱いた。
駅でうずくまっている人がいたら
私の友人が、こんな体験を話してくれた。
朝、うずくまっている男の人を駅のホームで見かけた。みんな気づいているんだけど、見ないふりをしてすたすた通り過ぎて行っていた。最初は声をかけようとして近づいたけど、こわいとおもってしまい、結局声をかけられずに電車に乗ってしまった。乗りながらどうすればよかったんだろう、と考えた。声をかけれなかったんだから、邪魔そうに通り過ぎってった人たちと一緒やん…と思うと情けなくなった。
私は、彼女の心の揺らぎ、葛藤が「存在している」ということがまず美しいと感じた。
声をかけたいと思うけど、恐い。周りは皆、足を止めるまいとして「人混み」の中に隠れていってしまう。その中で、どうしたらいいのか。声をかけたい。かけれない。歩き出す。見て見ぬふりをして歩く。歩く。歩く。いつまでも、彼の存在が頭から離れない。
隣にもう一人いたら
一人では、難しいかもしれない。恐い。そりゃそうだ。圧倒的に未知な存在に手を伸ばすことは、とてつもなく恐い。
じゃあ、もしこの時に、隣にもう一人いたらどうだろう。同じように声をかけるか揺らいでいる人がいたとしたら。そうしたら、「一緒に、声かけてみませんか」と言えるかもしれない。
微妙な揺らぎ、葛藤、戸惑い、「それでもこうしたい」という希望。そんな、「意思」と呼ぶには淡くて儚いようなものを、自分の中にも隣の人の中にも、見知らぬ誰かさんの中にも、「存在しているかもしれない」というちょっとの想像力と一緒に大切にしようとできたなら。
その時、どんな景色が広がっているんだろう。
(たま)
今回のnoteは、永井玲衣さんのコラムと、久保さんのブログ記事を一週間前に読ませていただいてからずっと書いてみたいと思っていたテーマでした。直接お会いしたことはありませんが、お二人の文章に出会えて本当に良かったです。ありがとうございます。
そして、なっちゃん。揺らぎを一緒に考えようとしてくれて、ありがとう。アカリノタネを通して、これからも探究していけたらなぁと思っています。これからも、よろしくね。