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VRCぽこ堂議事メモ:困っている人を助けないのは残酷か?善行の基準について

◯議題:困っている人を助けない人間は残酷か。人間の善行について

道を歩いていて、誰かが倒れているのを発見したとしよう。
このとき、あなたはその相手に手を差し伸べるだろうか?

あなたの答えがどうであれ、世の中には手を差し伸べる人がいるだろうし、同様に手を差し伸べない人がいるであろう。

では、手を差し伸べない人は「残酷」で非難されるべきだろうか。

この点、何かが残酷、あるいは悪である、と判断するためには、従うべき規範や善悪の基準が必要である。たが、議論をする中で、どの基準でこの問題を考えるべきか、という点について、根本的な立場の違いが見られた。

このため、傍観者は残酷か?という当初の疑問を下敷きにし、どのポイントでズレが生じているのか?あるいは我々にとって善行とはどのようにとらえられているのか?という点について議論を行った。

◯まとめると:

・困っている人を助けないことが「残酷」とされるかは、善悪の基準や社会的規範に依存する。具体的には以下の二つの観点が議論された。

①人間は善である義務を負うか:義務を負う/善行は個人の自由
善行を道徳的義務とみなす立場では、助けないことは「果たすべき責任を怠っている」とされ、社会的非難の対象となる。
一方、善悪を個人の選択の自由とする立場では、何もしないことは「善悪的に中立」と見なされ、非難対象にはならない。

②善行をどの観点から評価・実施するか:個人的視点/社会的視点
個人的範囲での善行に重点を置く場合、救済は個別具体的になる。一方、社会全体の影響を考える立場では、システム改善や根本原因の解決が重視され、個別の救助は優先順位が低くなる。

・以上のように、善行のあり方は人間の義務の範囲や行為の評価基準によって異なるため、議論の際にはお互いの立脚する立場に留意する必要がある。
・上記の立場をを組み合わせると善行の認識は4パターンに分類しうる。これらはどの立場が正しい、というよりも、そのように「善」が多様であることで、より多くの救済の道を残していると考えられる。


◯善悪判断における立場の違い…総論

善悪判断の立場について、下記の2点の軸において大きな差異が見られた。
 ①「人間は善である義務を負うか?」
 ②「善行をどの観点から評価・実施するか?」

それぞれについて概説する。

◯論点1:
人間は善である義務を負うか?

そもそも、見知らぬ誰かが困っているとして、我々はその人を助ける義務を負うだろうか?善行は義務か、それとも個人の選択か、という点について大きなスタンスの違いが見られた。

・個人は善行の義務を負うとする立場
この立場では、(程度や強制力の問題があるにせよ)人間は互助の義務を負っているとされる。つまり、人間は善悪を自由に選択できるわけではなく、「人間は善であるべき」という道徳的義務がすでに課されている。
この場合、救助を行わないことは「本来すべきことを果たしていない」とみなされ、社会的非難の対象となる。

・善行は個人の自由とする立場
これに対して良い行動(あるいは悪い行動)をするかどうかは、あくまで個人の自由とする立場もある。これは「人間は本来善悪的にニュートラルである」とする考えがそのベースとなっている。
この立場では、積極的な救助を行わない場合でも、それは善悪的の観点から「中立」であり、褒められる行為ではないが、同様に非難される行為でもない。

上記の立場の違いは、「人間にとって善悪の中立地点はどこか?」という点の違いとして現れる。

個人の自由の立場では、「なにもしない地点」が中立で、善行をした場合に徳(?)が加算される。これに対して、善行が義務の場合、助けるのが当たり前なので、「助ける」が中立地点となる。この場合、助ける以外の行為は減点対象である。

図にすると以下のような形である。


善悪の中立地点が異なる


このように考えた場合、善行の義務があるか?という問いは、我々の行動は社会的規範によってどの程度事前に制約されるべきか、という問いでもある。

◯論点2:
善行をどの観点から評価・実施するか?

冒頭で、「倒れている人を救助する」場面を例に取った。

なんの問題でもそうだが、現在自分の目の前で問題が発生しているということは、全体では同様の問題が多く発生している可能性が高い。つまり、今回の事例でも、社会全体を見渡せば「より多くの倒れている人がいる可能性」が高い。

さて、このように仮に問題が社会全体に発生しており、さらにその問題の根本が貧困や医療の不足といった社会問題にある場合、目の前の人を助ける行為は瞬間的には善であっても、問題の根本的解決には繋がらない
この場合、もしかしたら、個別の救助にはかかわらずに仕事にいき、その分たくさん税金を収めたほうが効果があるかもしれないではないか?

では、我々は、「善さ」をどういった尺度で評価・実施すべきだろうか?
もちろん、「目の前の改善」「社会の改善」のいずれもプラスの行為ではある。しかしリソースが有限である以上、どちらによりフォーカスすべきか?という点については検討の余地がある。
この点についても2つの立場が考えられる。

・目の前の人を助けることを重視する立場
ひとつは、個人の観測範囲で善行を実践する立場となる。行動の結果は個別具体的な内容となり、その方向性・効果も究極的には「自分が善であると認識できるか」という属人的な認識に基づく。
つまり、これはいわゆる一般に想像される「個人の善行」である。具体的な行動であることから、短期間で効果が出やすく、効果の認識もしやすい。なんなら感謝もされやすい。

・社会全体の善を目指す立場
もう一方は社会にとっての善を目指す立場である。この場合、対象は問題の発生原因、救助システムなどが抽象的・社会的問題が中心となる。個別事例の優先順位は下となり、場合によっては眼の前の人を切り捨てることも厭わない。問題の根本解決に有効な反面、効果が出るまで時間がかかるし、救助行為が抽象的なので、自分がどの程度の役割を果たせたかの認識もしにくい。
これは上記の個人的善行というよりは、社会倫理や政治的なイシューに近いといえるだろう。

◯補足的議論:善行の4パターン

議論のときには出なかった補足事項であるが、以上から考えると、
人間は善行の義務を負うか?
 人間は善であるべきと考える/善悪は自由であると考える。
善行の評価・実施方法
 個人的な観測範囲で行う/社会への影響を考えて行う。
の組み合わせで、善行の考え方には以下の4パターンが考えうる。

善行に関する4パターン

上記のような立ち位置の違いを鑑みるに、仮に「自分は善行をする」という決定をした場合でもアプローチや性質は大いに異なる。また、それぞれの立ち位置には短所と長所がある。

たとえば、上記図の右側(善行は義務)になるほど、見知らぬ誰かから助けてもらえる確率は上がるであろう。彼らが従うのは社会規範・義務感であるがゆえに、困っている→助けるまでは半分自動だからだ。
ただこの場合、助ける対象は「困っている人」だからであって、「あなた」だからではないし、既存の規範からはみ出た人間への救済はされづらい

左(善行は自由)になると、助力が得られるかは気まぐれであり、個人的な関係やコネ、社会とのつながりの強さに依拠する。
一方で、彼らは「好きな人・ものしか助けない」ことから、助けるとなった場合は、より多くの助力を引き出しやすい可能性はある。また、仮に既存の規範から逸脱していたとしても、あなた個人が好かれていれば助けてもらえるかもしれない。

◯結語:善の多様性とセーフティネット

このように一口に善行といっても、立場によって様々な形が考えられる。
たとえば、本件の論点提示者は左上「親切な隣人」の立ち位置であり、この立場からは、助けられる人を放置することは当然残酷であり、非難対象となりうる。一方で、それがすべてのケースをカバーしうるか?というとそうともいえないだろうし、他の立場から善にアプローチすることも可能だ。

自分がどの立場を取るにせよ、善に対する立場=社会において我々がどう行動すべきか、がお互いに異なる状態で議論を進めると、我々がそうだったように話が噛み合わない可能性が高い。
その意味で、ありきたりではあるが、相手と自分の立場の違いには十分留意をしつつ議論を行うのが有効であろう。

個人的な認識としては、これらの立場のいずれかが正しい、というよりは、
異なる立場の人間それぞれが社会にサポートの網をかけている、と考えるのが妥当と思われる。
先述の通り、上述の4パターンいずれの立場にも長所・短所があり、一つのスタンスで個人・社会を支えようとすれば歪みが出ざるを得ない。

セーフティネットやセキュリティは、複数のフィルターを重層的にかけることでヌケモレを減らすことができる。同様に、善も多様性をもって相互補完することで、より広範に社会の穴を塞ぐことができるのかもしれない。

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