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弱さと向き合う

人間ってなんだろう。正しい、悪いってなんだろう。

この社会はマトリックスだからねぇ、と何年か前にイギリスの大学院の下見でスコットランドの大学院を見に行ったとき、グラスゴーで再会した友達から言われた言葉。頭から離れない。

また、最近では、一夫一妻制は、男尊女卑の視点から作られていて、女性にとって本当は不利らしい、という友達。江戸時代の一夫多妻制の話とか。

確かに社会構造、制度設計、社会の中の倫理や、無意識のうちに一般社会で受け入れられている正しい間違っているという枠組みは、(その時々のトップが)時代やその社会をコントロールするために作ったもの(フーコーの Sécurité, territoire, population (1977-78)とか ‘Spaces of security: The example of the town. Lecture of 11th January 1978’ あたりの文脈では)であって、正しい・間違っているという物差しは変わりうるかもしれない。

(わたしの大の苦手な)ミシェルフーコーの知と権力や監視(パノプティコン)、securiteという名のコントロールとか、目に見えない権力構造についてリサーチしていたら、(あのときは苦手すぎて吐きそうだったけど笑)そういう世界観のものさしも加わった気がする。サバルタンの声は聞かれるか、聞かれない理由は未だに微妙な理解だけど。苦笑
(そもそもサバルタンという存在がポストコロニアリズム前後の文脈によって人種とかジェンダーとか、受け止められ方が変わるっぽい。)

当たり前のように、私たちは気づかないうちに、そんな作られた仕組みの中に、さも当たり前のように適応するよう促されて生きているのかもしれない。(フーコーとかもいろいろ言ってるけど)けれど、何かをするときに他者への共感力や周りに関わる人たちの気持ち、いろいろな視点も必要だと思う。最近、経済学の中にはない、(経済)人類学的視点のモラルエコノミーという考えのことを思い出すと、人は経済のために生きているのではなく、それぞれのコミュニティやその環境を守るための倫理観のもとに動き、反応を変える可能性があるんだなと思う。行動経済学とかは、人の心理的分野を分析していて、nudgeとか、もう少し調べて見たいと思いつつ最近は忘れ去っていた・・・。(たまたま見つけたけど面白そう。スコットランドの取り組み。アムステルダムとかもあったはず・・・)

その時の社会に合った、もしくは国民を管理しやすい社会の仕組みで作られた価値観のもとに生きている「かもしれない」という一歩引いた考えを改めてもっていたい。

親鸞さんの「善人なおもって往生を遂ぐ いわんや悪人をや」とか、あまり自分の中の汚い部分を見たくない(のかはわからないけど)傾向の自分をやんわりと友達に指摘されるにつけ、遠藤周作の沈黙にいた心の弱さのもと生きるキチジローや、キリストを欺くペテロのような部分は、苦しい気持ちはやはり認めたくない。(彼らみたいな感覚をもったことがあるかもわからないけれど)知花くららさんが、短歌は自分の気持ちがさらけ出されるとどこかの記事に書かれていたけれど、短歌とかにだけでも、偽らない気持ちを書いていきたいな、と思う。しかしサバルタン研究、ちょこっと見直してるけど、やっぱり難しい。。。

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