【ショートショート】鏡の世界【短編小説】
男は東京の小さなアパートに住んでいた。
男の一日は鏡を見ることから始まる。男の部屋には全身を写すことのできる大きな鏡があったが、彼は自分の姿を眺めることに異常なほどの執着を持っていた。彼は鏡に向かって笑い、時には話しかけ、自分自身との対話を楽しんでいた。
男の仕事は保険の営業で、営業成績は悪くなかった。男はそれを自らの明るく親しみやすい印象のおかげであると理解していた。男は社内でも評判が良かったが、まわりと密に交流を取ることを避けていた。仕事が終わるとすぐに家に帰り、鏡の世界に没頭したかったのだ。他人との関係よりも、自己認識と自己確認が男にとって何より重要だった。
ある晩、男がいつものように鏡に向かって自分の完璧な姿を褒め称えていると、突然鏡が割れてしまった。驚いた男が割れて散った破片を見つめると、数十の小さな断片が彼の顔を映し出していた。
次の日、男は仕事が終わると、急いで新しい鏡を買いに行った。店員はおすすめの鏡だと言って様々な機能の付いた流行りの鏡を薦めたが、男は以前の鏡とよく似たものを選んだ。
その夜、男は買ってきた鏡で自分の姿を確認した。新しい鏡に映った自分の姿は、先日割れてしまった鏡に映る姿と寸分違わなかった。だが、男の目にはその鏡像が歪んで見えた。
割れた鏡を見て以降、男は、割れた破片に映る自分の姿が頭から離れなかった。様々な角度から映し出される自分の姿。自分が思うほど完璧ではない自分。
その瞬間、男の世界が粉々に砕けた。世界は広がり重なり万華鏡のように移り変わっていく。これまでの世界は自分の錯覚に過ぎなかったのだろうか。新しい世界には何枚もの鏡が存在していて、様々な角度から男を映し出す。鏡によって映し出す姿は様々だった。鏡像の中にはひどく醜く歪んで見えるものもあった。だが、男はそれらすべてを愛するのだった。