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【ショートショート】理不尽な世界(3)


その紳士はそう言うと男に小さな白い紙を差し出し、立ち去っていった。紙には電話番号と謎の記号が書かれていたが、裏返すとそれが先ほどのバーの名刺だとわかった。いつの間に用意していたのだろうか。

男は家に帰る途中、何度もポケットの中の名刺を確かめた。頭の中では、あの紳士の言葉がぐるぐると回っている。

「あなたはこの国で数少ない選ばれし人間なのです。」

男は自分の存在がここまで好意的に受け止められたのは、生まれて初めてだった。男はこの紳士に対して好意的な印象を持ったが、彼に電話しようとは思わなかった。男は彼との会話でなんとなく心が満たされており、行動に移すだけの衝動を持ち合わせてはいなかったのだった。

それから数日が経った。男はあの紳士のことなどすっかり忘れており、以前と同じ日常を過ごしていた。男はいつもお昼過ぎに起き、お腹がすいたら近所に合成食糧を買いに行く。安い穀物と酸化した油、大量の塩分、化学調味料とで作られたそれは、深みのない単純でチープな味しかしない。健康でいたければ絶対に口にしない方がよい食べ物なのだが、男にとっては安く腹を満たせる最高の食べ物だった。

腹を満たした男は安物のベッドで横になりながら、安物のホロデバイスで遊び始める。無料の娯楽が男の脳を刺激し始めると、社会に不満ばかり言っている男であってもこの瞬間だけは嫌なことが忘れられた。そうして、ホロデバイスに夢中になっている間に時間が経ち、夜が更け、またお昼過ぎに目を覚ます。

男のような貧困に苦しむ人間もベーシックインカムをくれる社会のおかげで、ただ部屋でじっとしてさえいれば生きていけた。持病の通院にだってお金はかからない。だが、彼のような人間であっても時にはお金を使いたくなる。先日のバーの一件のように。そのために、気が向けば日雇いのバイトに応募し、ちょっとした貯蓄を行う。

男の今日の仕事はホログラム広告の広告員の仕事だった。男が仕事に申し込むと、夕方にどこそこのビルに来るようにと指示があった。

「この仕事は初めて?なに簡単さ。ホロデバイスを持って夜の11時になるまで繁華街を歩き回ってくれるだけでいい。もちろん、ホロデバイスはずっと起動しっぱなしで頼むよ。消したらわかるようになってるからね。それと、もし警察に見つかったらすぐに逃げるんだ。面倒くさいことになりたくなければな。最後にもう一つ。ホロデバイスを紛失したり壊したりしたら弁償してもらうから注意しろ。」

説明が終わると男は言われた通り、ホロデバイスを持って繫華街へと向かった。ホロデバイスを起動すると、艶かしい姿をした女性のホログラムが現れた。男はホログラムを見て、先ほどの説明の意味を理解した。つまり、公に宣伝できないいかがわしい店を男の手で宣伝しろということだ。法律上、この手の店は街に広告を出すことはできない。だが、個人が街中でいかがわしい店のホログラムを見る分には店は罪に問われない。

男はホログラムを流しながら繫華街を歩き続けた。すれ違いざま、ある者は興味ありげに、ある者は迷惑そうに、そしてある者は見下すように男を見ていた。そして、もうすぐ指定された時間になるという頃だった。男は後ろから声をかけられた。男が何事かと振り返ると、それは警察だった。

「お兄さん、そういうの流されると困るんだよね。他の人に迷惑かけてるから一緒に警察署まで来てもらっていいかい?あ、ホログラムは消してね。」

男は走って逃げた。逃げている最中、男は人にぶつかりホロデバイスを落としてしまった。だが、男は拾っている時間はない。男は一心不乱に逃げた。自分がでもどこをどう走っているのかわからなかった。捕まったらどうなるのか男にはわからない。だが、仕事の説明をした男は逃げろと言っていた。逃げないと面倒くさいことになるに違いない。

全力で逃げたおかげで、どうやら男は警察を撒けたようだ。男はほっと一息をつき、仕事の説明を受けたビルに戻った。

「ホロデバイスを落としたなら、弁償してもらわないといけませんね。」

「でも、警察に追われたらあんたが逃げろと言ったろ。」

「そうだ、でもホロデバイスを落とすなとも言いましたよね?」

男はどうにかして弁償を免れようと思ったが、裏から何人かの男が出てきて取り囲まれた。支払いが済むまで帰してくれそうにない。男は仕方なく、貸与されたホロデバイス分の料金にしては高い弁償金を支払った。

「なんで俺がこんな目にあわなければならないんだ。ああいう輩を野放しにしているこの社会のせいだ。」

男は悔しさと怒りでイライラが止まらなかった。弁償金のせいで、次のベーシックインカムが振り込まれるまで男は食べ物にも困る生活を強いられる。どうしようかと考えていると、あの紳士のことを思い出した。

あの男がこの社会をどうにかすると言っていたのは本当だろうか?俺が選ばれし人間だと言っていたのは本当だろうか?もし電話して、お前のことなど知らないと言われたらどうしようか?

男は色々な思いが頭を駆け巡った。だが、もし自分のことを覚えていてくれたら、あの時のように男を助けてくれるかもしれない。お金を貸してくれるかもしれないし、それともご飯を分けてくれるかもしれない。

男は家に帰るとあの名刺を探した。散らかった部屋から紙切れ一枚を探すのには時間がかかったが、見つけることができた。男は勇気を出して電話をかけた。

「はい、こちら宅配ピザのサンデイです。どういった御用でしょうか?」

電話口では宅配ピザの受付らしい女がしゃべっている。

ピザ?電話番号を間違えただろうか?それとも男のいたずらだろうか?

男が固まっていると、電話口の女は気になることを言った。

「もしかすると、どなたからのご紹介のお電話でしょうか?」

「そ、そうだ。男の紹介で……バーであった男の紹介だ。」

「バーの名前をうかがってもよろしいでしょうか?」

男が名刺を裏返すと、そこには "Bar; Centurion" という名前が書かれてあった。

「センチュリオンだ。路地裏にあるバーで……。」

「センチュリオンですね。確認いたします。」

女がそう言うと、電話から保留音――ドヴォルザークのユモレスク――が流れ始めた。そして、しばらくすると女が帰ってきた。

「確認が取れました。ピザが一枚無料になるとのことなので、ご自宅にお送りいたします。住所をうかがってもよろしいでしょうか?」

ピザが一枚無料?男の心中は失望でいっぱいだった。男はピザなんているかと電話を切ろうとしたが、お昼から何も食べておらず空腹であったので、住所を伝えピザをもらうことにした。

30分後、家のチャイムが鳴った。男が扉を開けると、ひげ面のピザの配達員が立っていた。男がひげ面の配達員からピザを受け取ろうとすると、配達員はさっと避けながら言った。

「ピザが一枚無料とのことなのですが、お先にクーポンをお見せいただいてもよろしいでしょうか?あなたが受け取ったという名刺で大丈夫ですので。」

ピザの配達員の要求に従い、男はしぶしぶ部屋に戻り名刺を持って来た。その間、ピザの配達員は玄関から男の部屋をじろじろと眺めていた。

「これだよ。」

男が名刺を差し出すと、配達員はじろじろと名刺と男を交互に見ていた。

「はい、大丈夫です。これはこのまま頂きますね。あ、それとドリンクもサービスでお付けしました。」

そういってピザの配達員は名刺を回収すると、ピザとドリンクの入った紙袋を渡して帰って行った。


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