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【ショートショート】理不尽な世界(5)


男が紳士の背中を見送っていると、隣にいる痩せた男が、静かに声をかけてきた。

「君はどこで先生に会ったんだい?」

「先生?」

男が問い返すと、痩せた男はハッとしたように表情を変えた。そして少し申し訳なさそうに頭を掻きながら言った。

「ああ、ごめん。君は来たばかりだったな。先生っていうのは、さっき君が話していた人だよ。彼はみんなからそう呼ばれているんだ。ここでは誰も本当の名前を使わない。みんな始まりにまつわる場所や物から名前を取ってコードネームにするんだ。」

「コードネーム……。」

その響きに男は幼稚さを感じずにはいられなかった。この痩せた男や"先生"が何をしているのかは知らないが、大の大人が互いにコードネームを付け合っている様子は、いかにも滑稽だと思った。

しかし、痩せた男は男の見下すような視線には気づかないようで、にっこりと笑みを浮かべながら続ける。

「僕はね、みんなから『ドリー』って呼ばれてるんだ。少し女性っぽい名前だけど、僕は気に入っているよ。大通りからちょっと外れたところにある『ドリーズ薬局』って店、知ってるかい?僕があそこで知らない男たちに絡まれてね。襲われそうだったんだけど、先生が通りかかって助けてくれたんだよ。」

ドリーの声はやや高く、弾むようだった。彼の表情はあまりにも陽気で、薄明かりしかないこの部屋では場違いに思える。

「知らない男たちに絡まれたなんて記憶、普通は嫌な記憶だろう。それでもドリーって名前が気に入っているのはあの場所が先生やラボの仲間たちと出会わせてくれたからだ。僕はすごく感謝している。」

「そうか……。で、ラボっていうのは?」

「この組織のことだよ。レジスタンスとか反AI団体とか、元々は色々な名前があったんだけど、あからさまだからやめた方がいいということになってね。今ではみんな『ラボ』って呼んでいる。だって、僕たちはある意味、研究者みたいなものだからね。どうやったらAIに支配されない健全な社会を作れるか、その方法を真剣に模索し、検証しているんだ。」

この瘦せた男はいつまでこのこっぱずかしい話を続けるのだろうか?ドリーの話を聞いても、男には何もかもが信じられなかった。というのも、ドリーの陽気さと相まってその言葉はいかにも冗談めいていたから、彼らが何か政府に反抗していたとしても、それは幼稚なお遊びに違いないだろうと思えたし、彼らが何者であれ衣食住を保証してくれるということが男にとって最も重要だったからだ。

だが、それも部屋から出るまでの話だった。

「話はよく分かったが、そろそろラボとやらを案内してくれないか?」

男の提案を受けて、ドリーは部屋から男を連れ出した。男はようやくこの薄暗い部屋から出られると安堵したが、部屋から出た男は不安を感じずにはいられなかった。

部屋の外は狭く薄暗い廊下に繋がっていた。むき出しのコンクリートで作られた壁や天井がこの空間に閉塞感を生んでいる。天井には薄暗い電気ランプがむき出しのままぶら下がっている。電気ランプの光は辺りをほんのりと照らし出し、ドリーと男の影を淡く伸ばしているが、明かりというには頼りない。人を住まわせるには不釣り合いなこの空間は暗い巣穴のように感じられた。

「ここが地下三階さ。ほら、あっちの階段を登れば地上に出られる。君の部屋は地下一階にあるから、そこで休めるよ。」

ドリーが陽気に説明するが、部屋を出た瞬間から男の胸中には警戒心が膨らんでいた。男はここに来て、やっとここに連れてこられた経緯を思い出す。ピザを食べた後に急に眠くなり、目が覚めたときにはこの施設にいた。これは彼らが意図的に仕組んだものではないだろうか。彼らの言う「ラボ」が何を目的とする組織なのかも定かではなかったが、ただの反AI団体にしては不気味な雰囲気が漂っている。

男は無意識にドリーの顔を伺ったが、彼の表情には何の不安も見られなかった。むしろ、施設の一員としてこの施設に自信を持っているように感じる。

「……どうやって寝ている俺をここに運び込んだんだ?」

それを聞いて、ドリーはにやりと笑いながら誇らしげな顔をした。

「それは企業秘密さ。僕も詳しくは知らないけど、先生が手配したらしいよ。あの人はこういうことに関しては手が込んでいるんだ。」

男の脳裏にあの紳士の顔が浮かぶ。どこか冷徹でありながら、周囲を惹きつける不思議なカリスマ。このような施設見せられては、"先生"の存在感を感じずにはいられない。

「ちなみに、今は地下五階を作っているところだ。といっても、僕は足が悪いから穴掘りに参加はしていないけどね。僕は生まれつき足が悪いんだ。ママはドクターから『あなたの子はオリンピック選手にはなれないだろう』って言われたらしい。ママは泣いたって。生まれてすぐに我が子の可能性が潰されたことが嫌だったらしい。それ以降、僕はほとんど病院には行ってないんだ。もし病院に行っていたら、僕の足は今ごろもうちょっとはましだったかもしれないけどね。でも君は元気そうだから……。」

ドリーは話し始めると止まらなかった。地下一階に向かって歩きながらも、ずっと話し続けている。だが、実際のところ、その内容のほとんどを男は聞き流していた。男の視線は、この無機質で異様な施設の風景に釘付けになっていたからだ。

男は自分がこの施設を案内されるに至った経緯を頭の中で反芻する。先生と呼ばれる男の提案を承諾し、確かに「ラボ」とやらに協力することを選んだが、それが果たして正しい選択だったのか。だが断っていたなら、一体どんな運命が待っていたのかわからない。地下三階の薄暗い部屋に閉じ込められるか、あるいは自分の命が危険にさらされる可能性さえある。

(コードネームだなんだと言っていたのはお遊びだと思っていたが、もしかしたらもっと異常な団体なのか?)

男は彼らに対して警戒心を覚えると同時に、少し気を付けた方がいいと心に留め、ドリーの後を追った。

続く


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