答えは分からなくてもいい
物語とは、その中に無数の表現が含まれている。
アニメに至っては全てが表現と言っても過言ではない。
アニメの中では偶然風が吹くなんてことはない。
どのタイミングで、どの方向に、どれくらいの強さで風が吹くかは全て決めることができる。
だから、全てが表現や演技と言っていいわけだ。
そして、物語のそれぞれの場面には当然作り手の想いが込められている。
そこには、作り手がそれまで経験してきた人生が現れている。
だけど、ここで知っておいてほしいのは、作り手の考えと受け手、視聴者や読者の受け取り方は違うということだ。
同じ経験をしても、人によって感じ方が違うように、必ずしも作り手の考えをそのまま受け取らなくてはいけないわけではない。
はっきり言えば、たとえスタジオジブリの宮崎駿が、ある作品について、
ここはAという意味で作りました。
と言っても、
自分はBと感じたら、それでいいのだ。
ではなぜ自分はBと感じたのか、それを考えるのが楽しいわけで、それを考察と呼んだりする。
昨今、様々なコンテンツが溢れている。
楽しいものは世界に溢れている。
だからか、人はなるべく効率的におもしろいものをできるだけたくさん摂取したいと考える。
そうなると、あまり一つのものに時間を掛けていられない。
だから、公式の見解を有り難がるのではないかと思っている。
作品の作り手が、「答え」を示してくれることはファンとしては嬉しい。
その作品について深く知れたような気がするし、SNSで他のファンと同じ話題で盛り上がれるからだ。
だけど、それでいいのかなとも思う。
「物語と心」をテーマに考えている僕としては、疑問があるのだ。
それは作り手の「答え」ではあっても、僕たちの「答え」なのだろうか?ということだ。
手っ取り早く正解のようなものが与えられると、
世の中で大切なのは、いかに早く正しい答えを手に入れられるかになってしまう。
だけど、心というものは複雑だ。
昨日正しかったように思えたことが、今日はは間違っているように思えるなんて不思議なことではない。
だけど、「これが正解」だ、というものを、自分の「外側」から与えられることに慣れてしまうことは少し危うい気がする。
一番の問題は、
答えが分からない状態に耐えられない、ということだ。
そうなると、とにかく「正しそうな」ものに引っ張られてしまう。
確かに答えが見つからないのは苦しい。
だけど、その答えが分からない状態で放っておけるかが、心にとって大切な時もあるのではないかと僕は思う。
ある時、ふっと何かが浮かぶかもしれないし、そのままずっと分からないままかもしれない。
でも、どんな状態でも、ただそのまま、「分からない自分」受け入れていればいいと思う。
そんな自分を責めることだけは無駄だ。
今、分からないことは暗い未来に繋がっているように思えることがよくあるけど、
今分からないことは、ただ、今分からないだけなのだ。
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