人は難問に挑みたい生き物
人は難しいことが大好きだ。
例えば、既に作者が死んで何百年も経っている絵画や壁画、文章や音楽。
そこに描かれたもの、書かれたものの意味は何なのか。
神を表しているのか、人を表しているのか、それとも自然そのものを表しているのか。
多くの専門家や、ファンやマニアが、ああだこうだと、議論を交わしている。
でも、もしその作品の作り手に直接聞くことができたら、案外こう答えるかもしれない。
「え?ああ、そうですね、う~~~ん・・・・・・何となく?」
みたいに。
案外それを作った本人は、特に考えがあるわけでもないのに、後世の僕らが勝手にそこに意味を付けて、勝手に物語を作って、物事を難しくしているだけなのかもしれない。
これは、人生の中でも同じようなことがよくある。
単純なものをあえて難しく捉えてややこしくしている。
いや、むしろ問題が無いところに、無理やり問題を見つけようとしているようにも思える。
たぶん、人は「問題解決」が好きなのだ。
問題を解消したり、乗り越えたりすると、そこに達成感を覚える。
それはとても素晴らしい快感だ。
そして同時に毒でもある。
さっきも言ったように、問題が無いところにも無理やり問題を見つけようとする。
問題を解決しないと成長できない。
問題を解決しない自分は役立たずだと思うようになってしまうからだ。
常に前を見て、常に上を見て、進もうとすることが素晴らしいことだと小さい頃から教わってきたから、
今この場にとどまることが怖くて仕方ないのだ。
何でもいい。何か前に進んでいるような感覚が欲しい。
勉強や仕事などで、煮詰まって進まないとき、つい部屋の掃除を始めてしまうのは、たぶんこういう心が働くからではないだろうか。
普段は気にしていないのに、そういう時に限って部屋が散らかっているという「問題」を自分で作り出している。
でも、思うように前に進めるときばかりではない。
今、動けないのならばそれでいいと思う。
まずは立ち止まることをそのまま受け入れるほうがいい。
下手に進もうとするから、かえって足がもつれて焦るのだ。
たぶん大切なのは、今ここにいるという覚悟みたいなものなのだと思う。
大丈夫。立ち止まったくらいであなたの価値は無くならない。
むしろ、立ち止まって落ち着いて周りを見てみれば、案外優しい風景が広がっているかもしれない。
少なくとも、今すぐにできることはそう多くはない。
まずは落ち着いて深呼吸だ。
目の前の問題は難しいかもしれないが、
なあに、何とかなるさ。
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