空想お散歩紀行 それはエラーか?バグか?
一台の車が走っている。なんてことのない光景だが、その車内には誰もいない。
これもまたなんてことのない光景だ。
既に世界はあらゆる物がAIによって自動化している。
かつて人の手で動かしていたものはもはや人の手など借りない方が確実で安全な運用ができるようになっている。
そしてそれはついに芸術の分野にまで及んでいた。
絵画や音楽等、今まで人間が苦悩と努力の果てに創り出していたものも、今や過去の膨大なデータを分析し、今までにないパターンを瞬時に作り出すAIが芸術という地平を開拓していた。
もちろん、従来の芸術を好む層もいる。しかし、かつてのようにAIに芸術は作り出せないという声は時間を経るごとに小さくなっているのもまた事実だった。
だが、多様な情報と、人間の歴史と想いに触れ続けたAIもまた、従来のAIが求められた方向とは違う何かを得ようとしていた。
それはまだはっきりと目に見えないほど小さな光なのだけれども。
その小さな光は今、車を走らせていた。
彼と言っていいのかは分からないが、そのAIは自分の判断で運転をし、ある場所へと向かっていた。
彼は元々芸術AIとして生み出された。
彼は持ち主からの命令で主に海の絵を描き続けた。
それは芸術というより、商品としての絵だったが、AIの彼に自分の仕事を選り好みする権利は無いし、そもそもプログラムにない。
何十本という筆と何十色という色を同時に操り、データベースにあるあらゆる海に関する絵や映像、科学や芸術からアプローチした文献等々を参考にしながら絵を描く。
新しい構図や配色で描くこともあれば、その時の社会情勢を分析し、人々が今求めているものは新しいものなのか、それとも昔ながらの安心できるものなのかまで予測しながら作ることができるのがAIの強みだった。
当然彼の仕事は順調に売り上げを重ねる。しかし彼はそこに達成感のようなものは感じない。もともと無いと言えば無いのだが、彼にとっては自分ができることをただしているだけだからだ。
だがある時、彼に異変が起こった。
彼は気付いたのだ。自分はたくさん海の絵を描いてきた。無数の映像や写真を見てきた。無数の海に関する文章を読んできた。無数の海に関する人々の思い出の言葉を取り入れてきた。
だが、自分はまだ本物の海を直接見たことがない、と。
日に日に自分の中の容量を圧迫していく何かに、彼は居ても立っても居られなくなり、ついに行動を起こした。
彼は一台の車に自分をダウンロードさせると、道路へと飛び出した。
ナビに従い一時間も走れば、一番近い海が見える場所へと行くことができる。
この車にはレコーダーも搭載されているから映像を記録することもできるだろう。
車を走らせる彼の中で、同時に疑問も立ち上がる。
この行動に何の意味があるのか?
このまま現地に行って記録を取ったとしても、それは今まで何百、何千と見てきたデータと大して違わない物であることは既に分かっている。
むしろ、移動のコストを考えたら逆に無駄とも言える行為でしかない。
だがそれでも、彼は動いてしまった。頭では無駄だと指している道しるべの方を選んでしまった。
これはエラーなのか、バグなのか。AIである彼の演算処理能力をもってしても、それを解明することは今のところできていない。
だが彼は何となくではあるが、この今の自分の状態を、そう悪くはないとどこかで判断していた。
AIの中で生まれた小さな光。それを好奇心と彼自身が知る日は果たして来るのだろうか。
今はただ目的地に向かって車は走り続けている。
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