キャラとイメージと物語はいつまでもどこまでも
同じイメージがずっと昔から受け継がれているというお話。
確かに幽霊と言えば、白い姿でユラッと佇んでいて、勢いよく飛び出してくることはなく、気付いたらそこにいる、みたいなイメージがある。
誰かに教わった覚えはなくても、いつの間にか知っていたりする。
イメージというのは、すごいと同時に恐ろしいものだ。
そんなイメージが大勢の人の頭の中に、それもずっと昔から受け継がれているのは、そこに強烈なキャラクターと、そのキャラに付いている人を引き込む物語があるからだ。
物語とそれが持つイメージは、人の頭の中にずっと残り続ける。
それこそ、世代を経ても消えないほどに。
だが、物語というのはいつも外側からやってくるとは限らない。
僕たちは自分で無意識と言ってもいいくらい、当たり前に物語を作っている。
そして、それに影響されてしまっているのだ。
「自分なんてダメだ」と思ってしまう人は多い。
それも立派な物語だ。
本来、人間は完璧でもなければ、全くのダメということもない。
どんなに何かが得意な人でも、弘法も筆の誤り、河童の川流れで、失敗することもあるし、苦手でも、とんでもないラッキーでたまたま成功することもある。
仮に1回や2回、いやいや10回連続で失敗したからって、その人が原因では無いかもしれないし、もしその人が原因だったとしても、その失敗で人生全てが否定されるなんてことはないはずだ。
でも、人は勝手に物語を作ってしまう。
「全否定」なんてタイトルの物語を作ってしまい、その主人公に自分を当てたら、そこから悲劇の幕が上がる。
自分の中の物語は、過去を全て塗り替え、未来まで勝手に想像して作り出してしまう。
自分のこれまでの人生を否定し、これからの人生までも否定してしまう物語を人は簡単に作れてしまうのだ。
監督・自分。
脚本・自分。
演出・自分。
主演俳優・自分
という、見事な一人芝居を人は無意識の内にやっている。
そして物語によって作り出されたイメージが現実のようになってしまう。
人間が物語を扱うのではなく、物語が人間を扱うようになってしまうのだ。
これは気を付けないといけないだろう。
もし、何かの拍子に自分自身を否定するようなことがあったら、
「おっと、これは一体誰が書いた脚本だ」
と、自分を舞台から客席に下すことが大切なことになると思う。
人は自分で物語を作って、それを自分で演じようと言うのなら、
せっかくだし、思いっきり都合のいいストーリーにしてみてはいかがだろう。
自分は運が良くて、なんだかんだで全てのことがいつの間にやら上手くいっている。
そんな物語の中で自分を遊ばせてやったほうが、まだ健全かもしれない。
最後に、今回の記事で気になった箇所がある。
「こうした儀式には舞い、詠唱、木製の面を被ったキャラクターがつきもので、面をつけるのは本質的にその役割になりきることを意味する。それは面をつける人間に起こる一種の憑依ともいえる。」
能の舞台の上では、面を付けた人間が、その役そのものになって演じているとのことだが、
これは現代でも受け継がれていると思う。
それは、Vtuberという存在だ。
生身の人間が顔出ししているYoutuberと違い、アニメ調のキャラが、人間の喋りに合わせて動く形式の配信は、海外にもいるだろうが、やはり日本で盛んな印象がある。
仮面の向こうにキャラクターと物語を見出すのは日本人の得意技なのかもしれない。
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