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“いのち”の熾火(おきび)
「んー、んー」
やっぱり言葉にならないな。
桜のつぼみを窓から眺める。
かあさんが面会に来なくなって一年ぐらい経つのかな。
もう口からは食べられない。
会話も難しくなった僕を、ある看護師さんは“超人”と呼んだ。
ベッドに横たわったまま家族にも会えない日々に希望を抱けず弱っていく人は多い。それでも諦めずに生きる僕は“超人”らしい。
僕はそんなヒーローじゃないよ。
反論しようにもしゃべれないんだけど、目的もなくただ生きてきた訳ではない。
僕には“いのち”の熾火(おきび)がある。
焚き火の一番深いところで真っ赤に光る薪を熾火と呼ぶ。
かあさんと山歩きしてた頃、夜空へ舞う火の粉を前に時を忘れて語りあったよな。たいてい僕は聴き手だったけど。
熾火が赤く熱をもつ限り、風に揺らめいても炎の勢いは保たれる。
焚き火を囲みゆるりと流れるひとときは、きっともう訪れないだろう。
僕の熾火に灯るのは、年末に生まれた孫に会うという決意に似た希望だ。
そのために“いのち”を今も燃やし続けている。
*
午後になるとお医者さんや看護師さんの出入りが少しずつ増えてきた。
何かあったのかな。木の枝のスズメが首を傾げている。
あれ、かあさんか。
いつの間にか病室にいた妻を見つめる。
久しぶりだなぁ。
お医者さんと何やら話し込んでいる。
おいおい、こちらを向いてくれよ。ようやく落ち合えたんだから。
*
「おとうさん、桜がもうすぐ咲きそうだね。うちのモッコウバラもね…」
何気ない妻との日常に浸る間に、外は暗くなっていた。
ふいに横開きのドアから息子夫婦が入ってきた。一人息子はお腹の前に何かを抱えている。
孫か…。
めぐり逢えた“いのち”はお互いを照らしだす。
「んー」
僕から声をかけた。
「あー」
孫も応えてくれた。
「んー」
「あー」
僕たちは真っ直ぐ見つめあって心を重ねた。
言葉はいらなかった。
しゃべろうにも二人ともしゃべれないんだけど。
伝えたい想いはたくさんあったけど。
だからこそ言葉はいらなかった。
そもそも僕は口下手だったよな。
ほんの短い間、孫を真ん中に皆で笑いあった。
心地よいひとときだった。
初めて五人で写真を撮って、息子家族は部屋を出た。
僕の熾火は役目を終えた。
君のおかげで生きてこれた。
僕はゆっくり目をつむり、星空へ昇ってゆく。
ありがとう。
君は君の“いのち”を燃やせ。
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三年前の春の出来事を父の目線で書きました。孫との念願の初対面を果たした数分後、彼は天国へと旅立ちました。
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