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3‐2 サッ、ズバッ、スコーン

「勉強はできるけど、スポーツは全然ダメなんです」
「朝から夜まで野球ばっかり、あの情熱を少しでも勉強に向けてくれないかな」

なんて会話が聞かれることがあります。たしかに何かを学び、身に付ける、という意味では、いわゆる勉強も、スポーツやパフォーマンスなどの運動も、人の能力や可能性を拡大していく行為です。

その一方で、学習における違いもあります。その根底にあるのは「言語化できる/できない」の差です。

「あの緑の、ほら、オレんちの裏側にある、夏になるとでっかいクワガタが捕れる、でも、ときどきマムシも出たりしておっかない、ほら、坂道だらけの、あれ」みたいな長い説明は「山」でいいわけでして、その前に私は「オレんち」の場所を知りません。

 「山」という言葉から想起される山は人それぞれだとしても、「こういうのを山という」という最大公約数な概念は少なくとも共有されています。また違う山を見ても「山」だとわかります。このように言語は、応用可能な約束ごととして機能しています。「言語化できる」とは「共有できる」なのです。

運動はかなり性質が異なります。

運動はまず言語化ができません。

ホームランの打ち方を

「サッとボールを視て、バットでズバッととらえれば、スコーンと場外まで飛んでいく」

と説明されたとして、なんかリズミカルな感じは伝わってくるものの、それを発しているのは「スコーンと場外まで打球を飛ばせるスキルのある人」です。

身体、構え方、視ている景色、積み上げた経験値はみんな違うので、「サッ」「ズバッ」「スコーン」に込められた運動は他者とは共有できません。初めてバットをもった人が自身なさげにバッターボックスに立って「ズバッ」と打っても、同じ運動が出てくることはないのです。

 ですから圧が強めの指導者に「こうやって、こうやれば、こうなるだろ!」と言われたとして、「あの、もってる材料が違うんで、僕の場合はそうならないんです」という返答は、基本的に正解となるわけです。

 このように「言語化できない学習」は常に肉体性を伴うため、「共有できない」のです。そして言語化できないものは、そのレベルが向上すればするほど、「その人にしかできない」オリジナリティを帯びます。「言語化できる/できない」とは、「人から切り離せる/切り離せない」に近いともいえるでしょう。(パフォーマンス医学より)

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