真っ直ぐの言葉。
世の中には絶対はない、という。
本当にそうだろうか?
もし絶対はないのなら、なぜ絶対という言葉があるのか?
なぜ絶対という概念があるのか?
こんな若干長めのイントロはさておき、僕が「これはかなり絶対かも知れない」と思っていることがある。
それは「自分では自分の姿を直接目視することができない」という事実だ。
左の肩甲骨と右の肩甲骨の間を見ることもできないし、右眼は、左眼も、右眼も直接見ることができない。
自分の姿を知るには、鏡や水、レンズや画像を介さなければならないのだけれど、それらも3次元そのままではない。
何が言いたいかというと、自分で自分の姿を捉えるのは、基本的に不可能、ということだ。
「自分で見えてる自分は一部だけ」
これを肝に命じておきたいのだが、肝は術中の外科チームにしか見えない。ましてや、鍋が美味しい季節だからと、あん肝に命じてもしょうがない。
だけど「誰か」は自分の姿を教えてくれる。自分では捉え切れていない部分を、自分の意識の外を、時には自分の纏った空気までも教えてくれる。
これは本当にありがたいことだ。
お世辞や耳障りのいい言葉ではなく、打算と計算の言葉でもなく、誘導や扇動の言葉でもなく、
「真っ直ぐ見据えた、真っ直ぐの言葉」が、自分の真の姿を教えてくれる。
真っ直ぐの言葉は、ブレていないから心に直角に刺さる。あまりにその通り過ぎてショッキングなこともあるし、心を見透かされたような気にもなるし、自分の至らなさや浅はかさに気づかざるを得ないこともあるんだけど。
それでも、誰かから「真っ直ぐの言葉」をもらえるというのは、実に有り難いことだ。自分を間違って捉えたまま、真っ直ぐ伸びていくのは難しいから。
周りが賞賛ばかりになってるときは特に、用心しなきゃいけないね。