羽生 結弦選手と勇気の総量
羽生 結弦選手。
僕は今まで、必ずこのように表記してきた。「氏」でも、「さん」でもなく。
なぜか?
彼が選手だからだ。アマチュア時代も、そして現在も。
選手とは「選ばれし手練れ」「選ばれし使い手」だと僕は理解している。
羽生結弦選手は、己の意志と不屈の精神をもって、その道を選び続け、選ばれ続けたからこそ、あのような大きな舞台にひとり立ち、世界レベルで人々に希望を配っている。
そしてやはり「選手」である以上、表現のフィールドはあくまでも、彼が「選手として降り立つ場」であるはずで。
仮に、一部メディアや大衆の興味が「それ以外の領域」にあったとしても、羽生結弦選手はあくまでも氷の上で自己表現し、「パフォーマンスを通じて」時代にメッセージを伝えてきたと思う。
もちろんメディアの取材も受けるし、TVや映画などにも出演してきたが、それらはあくまでも「副」であって、「主」たる軸足はやはりアスリートとして、表現者として、芸術家としての「羽生結弦選手」であろう。
仮に彼の「パフォーマンス」について、外部からいろいろ言われることがあったとしても、それはもう「人前に立つものとしての覚悟」として織り込み済みだと思う。
問題は、そうでない部分だ。羽生 結弦選手は、どう客観的にみても「自身のプライベートを切り売りして」ここまでやってきたわけじゃない。
いくら著名人だからといって、プライベートにヅカヅカと土足で入り込むのは間違っている。
もし入り込むならば、入り込んだメディア、それを指示した責任者、許容した企業には、それ相応の責任が生じてしかるべきだろう。
前にも書いたことがあるけれど、僕は羽生結弦選手は「新しい世代のロールモデル」だと思っている。「日本発世界」を具現化している若き戦士であり、「国を挙げてその存在を誇るべき日本の宝」ではないか。
経済効果だけでも凄い数字だと思うし、羽生結弦の存在がどれだけの数の人々を勇気づけていることか。
医療は「生きる方法」を与えることはできるけど、
「生きる意味」を与えてくれるのは、人間の真剣な生き様であろう。
また、たとえジャンルが違ったとしても、「身体表現を追求する者」なら、彼がどれほどの高いステージにいるかは身体で感じられるだろうし、彼の世界規模の影響力は「時代に選ばれし者」の領域である。
ここから先は僕の妄想に近い想像だが(許してほしい)、もしプリンスが生きていたなら、羽生結弦選手に連絡をしたのではないだろうか?
あのマライア・キャリーがメディアにバッシングを受けたとき、彼女の話に真摯に耳を傾け、アドバイスを続けたのはプリンスだった。
残念ながら、今はそれはかなわないけれど・・・。
でもプリンスはきちんとメッセージを「これから」の人たちに遺してくれている。
何度も何度も自らの心と身体に鞭打って、自身の可能性を高めてきた羽生結弦選手。その存在の大きさゆえに「ノイズ」も聞こえてきてしまうけれど・・・。
でも、こんなときこそ心からの感謝を送りたい。
あえて賞賛でもなく、擁護でもなく、ただひたすら感謝で余白を埋め尽くしたい。だって「感謝」にこそ「感謝する人の真実」があるから。
ありがとう、羽生結弦選手。たとえ何があっても、僕のリスペクトは、ますます大きくなるばかりです。羽生結弦選手について考え、自分なりに文章をしたためる、この行程自体が僕にとっての救いです。
僕に何かできるわけではないけれど、救われた人たちと共に立ち上がりたい。そして羽生結弦選手のから受け取った「勇気の総量」をひとつも残らず「感謝」に変えて、これからに反映させていきたい。
以上、100%自分の心のために書きました。
PS 「重力」の章は、羽生結弦選手の映像を何度も見て書きました。。