「何とかする練習」の功罪
とりあえず目の前の結果を出すには、
今ある武器を駆使して「何とかする練習」が必要です。
この場面で何を使って、何を使わないか、とか。
どうやって勝ちパターンに持ち込むか、とか。
続けるのに必要なスタミナをつくっておく、とか。
勝率が上がるための戦術とか、配分とか。
そういった準備が重要だと思います。
でも・・・、
「何とかする練習」ばかりだと、新しい武器が増えていきません。
新しい武器は、探したり、研究したり、磨きあげたり、熟成させたり、といった過程が必要になるから、
どうしても、「ある程度の時間」がかかります。
もちろん「想像」は先行してしまうので、
武器をつくっているときには、「これが完成すれば・・・」と思うし、武器を手にしたときには、「よしこれでいける!!!」なんて思うんだけど、
実際は、武器が完成したあとも、それを適材適所使いこなせるようになるまでにも、やっぱり時間がかかります。
つまり「何とかする練習」と、「新しい武器をつくるための練習」、さらに「新しい武器を使うための練習」があるというわけです。
武器をつくる練習をしながら、その武器を使う練習をするのは、やっぱり無理なんですよね。まだ未完成なので。
僕自身、若い時はこういうことに自覚的ではなくて、頭の中でも、身体でも、ごっちゃに混線したまま「練習」をやっていました。
なんとか帳尻を合わせても、実力は停滞していたり、
これさえあれば、という理想ばかりやって、現実面での準備を怠ったり、
新しい武器を丁寧につくる重要性を忘れていたり、
武器さえつくればなんとかなる、と過剰に期待してしまったり。
そんなことが多くあったと思います。
さらに「練習した気になる練習」とか「追い込んだ満足感が得られる練習」とかもあるから、やっかいですよね。何の検証も経ずに、いつの間にか「すごい練習をすれば、すごい結果が得られる」に変異してしまうので。
だから、相撲で言われる3年先の稽古、アスリートのスタイルチェンジ、ミュージシャンの新曲、そういうところって本当に大切だなぁ、と思います。
逆に言えば、今の練習はどんな練習なのか?
そういった問いがあるだけでも、随分とスッキリするような気もします。
こうやって「noteを続ける」ってことも、3年先に少しでも生きるといいなぁ。
読んでくださり、ありがとうございます。
継続できるのは「いつかきっと誰かに届く」と信じられるからです。