糸井さんと羽生さん⑤ ~羽生結弦という芸術~
ほぼ日さんでの糸井重里さんと羽生結弦選手の対談、Day5。
仙台のアクティヴな少年ファン、科学の言葉を駆使するアスリート、被災地を背負うヒーロー、応援を力に変えるエキスパート、感謝を体現するジャンパー、MOTHER2の優良プレイヤー・・・。
唯一無二の多面体・羽生結弦さんに、やさしく光を当てる糸井さん。
技術点じゃなくて芸術点のことでいうと、
羽生さんは自分の表現について、
どんなふうに考えていますか。(糸井さん)
スッと差し出された問いから
今度は「芸術家・羽生結弦」が前面に出てくる。
すべてを込めて表現するけれども、
そこに余白があったほうがよくて。
人が想像できるその余白があるからこそ、
なにかしら伝わるものがあるのかなって。(羽生さん)
これには唸った。
僕は芸術とは、「まず表現したい何かがあって、
その共感者を増やしていくもの」だと考えていた。
芸術があって、それが他者に波及し影響していく。
そのようにとらえていたのだ。
しかし芸術家・羽生結弦さんは違った。
「他者の存在」が前提となっている。
受けとった人たちが想像をプラスしやすいように。自己を投影できるように。文化や歴史、人種や性別などの違いを超えられるように。
つまり羽生選手の想定の中に、あなたも、わたしも、あの先輩も、そしてこの子も、「みんながいる」というところからスタートしていることが読み取れる。
僕はドクターワークをやっていて、、高齢者施設やデイケアなどで羽生選手のポスターや写真を目にすることがかなり頻繁にあるけれど、それまでの人生を振り返る年代の先輩方に羽生選手が大人気である。
「なぜここまで幅広い層に支持されるのか?」
さまざまな理由があると思うけど、その起点に「人を選ばない」マインドがあるからだ、とすごく納得できた。
非常に興味深いのは、彼の言葉を知ると、この写真もまた違って見えてきたことだ。
左右に大きく開かれた両腕の上に「みんな」が見えてくるような、そんな想像が僕の脳の中で早速動き出した。
芸術と技術の話も衝撃的だった。
これまで芸術と技術はある意味、対立概念として語られてきたように思う。
「技術はあるけど華が無い」
「これは芸術だから技術論で語れない」
「技術じゃないんだよ、気持ちだよ、情熱だよ」
至るところで、そんなような話を聞いてきた気がする。
だけど羽生選手はどちらかを軽んじてはいない。
難度の高い技術としてのジャンプ修得を己に課しつつ、
それらを内包した芸術性を追求している。
ぼくには自分が表現したい世界っていうものが
しっかりとあって、それを出したいんだけれども、
誰かの価値観に委ねられるものだけじゃなくて、
いわゆるわかりやすい難しさ、普遍的な点数、
みたいなものも同時に手に入れて勝ちたい、
って強く思っていた(羽生さん)
「勝っても負けてもいい」という話じゃない。
「勝ちたい」であり、「競技における勝ち」をわかった上で、「羽生結弦にとっての勝ちとは何か?」が極めて明確かつ具体的に語られている。
美しさ、調和、感謝に向かう芸術家が、同時に、勝ちに対して喉が渇き切っている稀代の勝負師であることがビシビシ伝わってくる。
「言葉にできる」とは、それについて思考してきて言語で共有可能なレベルでとらえたということ。
しかも羽生選手の場合、「気が遠くなるほどの回数、己の肉体に問い続ける過程」で掴んだ言葉である。
そして飛び出した坂本龍一さんのエピソード。
メロディーでも、リズムでもなく、
音の質っていうところが一番探せないんだ
って言ってて、そっくりですよね、
さっきの余白や表現の話と。(糸井さん)
このような一次情報が対話の流れの中で、瞬間的に選び出されるのが、糸井さんの凄さだ。
サウンド、という4文字で、坂本龍一さん、糸井さん、羽生さん、の徹底した求道者の側面がリンクした。
余白と表現と得点。
僕はDay5を拝読して、この難解なテーマを体現したある英雄を思い出した。
モハメド・アリである。
格闘技は苦手、という人も、20秒だけ映像を見てほしい。リング上における機能美を具現化した男のファイトは、殴り合い、潰し合いではない。フットワークとディフェンスを極限まで高め、相手の実力を引き出しながら描きたいストーリーをつくる。完全にアートの領域だ。
モハメド・アリが伝説なのは、ボクシングを芸術の領域まで引き上げたからだ。
そして僕らは知っている。
羽生結弦という芸術家は、その領域の人であることを。
羽生結弦という芸術は、現在進行形であることを。
そしてこの対談の影響はずっと続いていくだろう。
リアルタイムで拝読できるしあわせに、心からの感謝を。
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