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#250 メジャーであり、マイナー
僕はスポーツは平等だと思ってきました。しかし、モンゴルやカンボジアでの経験から、途上国におけるスポーツの環境格差を感じてきました。
そして、モンゴルの女子チームでは、彼女たちの上達への熱量とは裏腹に、練習する環境を得ることが難しい現実があった。
先日、日本のプロリーグでも活躍され、現在は海外にプレー環境を移した知人との話の中で、改めてそうしたスポーツ格差について考えさせられました。
サッカーはメジャースポーツ
サッカーは言わずとも知られるメジャースポーツだ。
日本のサッカー競技人口については、選手登録数とサッカー推計人口数を、JFAと日本生産性本部が発表しています。
日本の競技スポーツ種目の中で、サッカーの競技人口は7番目です。
サッカーよりも競技人口が多いスポーツは、
1位からボウリング、水泳、ゴルフ、野球、卓球、バドミントンとなっています。それ以降にはテニス、バレーボール、バスケットボールが続いています。
サッカーの競技人口はどれくらい?
世界でのサッカー競技人口は約2億5,000万人と言われています。
世界での競技人口が約4億5,000万人というバスケットボールには及びませんが、それでもサッカーは世界で2番目に競技人口が多いスポーツです。
中国では、競技人口が多くてもFIFAランクは高くありません。
同じくアメリカは競技人口が多く、割合も高いにも関わらず FIFAランクは伸び悩んでいます。
その理由として、中国では「サッカーでは食べていけない」と考えている人が多く、青少年たちがサッカーに打ち込める環境が整っていないことが背景にあるようです。
今ですら中国サッカーの経済的な問題というのは一部で騒がれていますが、多くの日本人から見る中国サッカーのイメージは潤沢な資金によって運営されているものというものでしょう。
途上国における近代的スポーツ
東南アジアに近代スポーツがどのように広まっていったのかを一般論として語ることは、それほど難しいことではない。
近代 スポーツが東南アジアの社会に受容されるようになったのは、植民地時代のことであったからである。
例えば、ビルマという国におけるサッカーの普及は英国人のサッカークラブチームの練習を見て、興味を持った現地の若者たちが見よう見まねでおこなったのが始まりと言われている。
インドの場合,植民地時代にサッカーが 一部地域の教育現場で強制的に実施されること もあったようである。
しかし、国民的スポーツとまでならなかった背景にはヒンドゥー教徒の多いインドで、その当時は牛の皮で作られたサッカーボールを蹴るという行為が特別の意味を持ち、容易に受 け入れられるものではなかった。
しかし、東南アジアに目を移すと多くの国がサッカーを国民的なスポーツとして受け入れている。
サッカーというスポーツはボール一つあれば大人数の人々がプレーすることが可能な集団競技であることもその要因となっていると思う。
途上国でのスポーツの価値
近代スポーツは,近代合理主義的な考え方をベースにして展開されてきた。例えば,どのようなトレーニングする事が効果的であって、競技力を向上さ、 記録を出すための発想というのは
いかに効果的に生産性を高めるのか、短時間で仕事量を増加させるのかといった考え方に直結するものだと思う。
途上国における経済の発展と、スポーツの発展というのは、
形こそ違えども見据えている方向性は同じであり、このような観点からもスポーツに注目することで経済発展の可能性を追求することもできるのではないかと思っている。
そして、経済が発展して個人の所得も上昇すれば、よりスポーツなどの余暇に使える時間や選択肢を増やすことが可能となるだろう。
しかしながら、スポーツができる環境は所得の上昇と比例関係とはならない。(設備を作るためにはより大きな費用がかかるため)
スポーツはチャンスを与える
日本に住む方々が思っている以上に、途上国の人々は社会に出ていく機会が限られています。
自分の生まれた村から一歩も外へ出ずに一生を過ごす人も少なくありません。
特に貧困層や女性、少数民族というのは現実として社会的弱者とされています。
社会と関わりたくても情報がなかったり、教育が受ける機会を得るということも容易ではないのです。
しかし、スポーツは多くの国で共通して楽しまれているので、ともにスポーツをすることによって、他を知る機会を得ることも可能です。
スポーツは、途上国の課題を直接解決することはできません。
しかし、彼らの社会参加の機会や、スポーツによって得られる教育、そして問題を解決するための糸口となるのではないでしょうか。
スポーツは誰しもが楽しめるもの
僕は、スポーツは平等だと思って続けてきました。
しかし、東南アジアの途上国では、裸足で石ころが転がっているような中で、ボロボロのサッカーボールを蹴っている子供達の姿をよく見かけました。
そして、モンゴルで女子チームのコーチをさせていただいた際には、男女間でのスポーツ環境の差を感じました。
僕が彼女たちの練習したいという気持ちを尊重して、練習場の費用は負担するからグラウンドを予約できるか?と聞いたら、施設の方の返事は
「男子チームがどこか使うかもしれないからそれを確認してから」
というものだった。僕は衝撃だった。
なんで、そこに男女での差があるのか。僕は国籍も年齢も関係なく、サッカーは楽しめていた。しかし、女子の選手たちはそういう面で環境を得ることに困っていた。
男女でのスポーツ環境の格差
つまり、男女感でのスポーツ環境の格差がある。
アメリカの各大学には奨学金をもらって勉強しながら競技をする「学生アスリート」が多数在籍している。
政府の補助金を受けている教育機関では、男女の性別によって教育や活動機会を差別してはいけない、という「タイトルIX」と呼ばれる連邦法が1972年にできたことが影響している。
男子にだけ与えられていた練習環境や奨学金も女子学生に提供することが法律で定められているのだ。強豪校では200人近い男子選手が奨学金を受けているが、女子選手にも同額奨学金を与えなければ規則違反になるため、男子のスポーツが強い大学は、女子も必然的に強くなるという相乗効果もある。
しかし、プロの世界となるとシビアな現実がある。
プロスポーツとしての観客動員数が男子スポーツよりも大きく劣るために、スポンサー収益が大きく劣っていることにより、所得の差が生まれている。
そして、サッカーワールドカップの賞金は男女で19倍差もあるのだ。
ロシアワールドカップの優勝チームの賞金は約39億円となっている。
出場する全チームに約8億3、000万円が与えられたようだ。
しかし、2015年の女子ワールドカップの優勝チームの賞金は約2億円、出場チームへの賞金は約1,000万円と桁違いの格差となっていた。
メジャーであり、マイナー
サッカーは冒頭でも述べたように紛れもなくメジャースポーツである。
しかし、ここに性別を付加することで大きく変わってしまう。
場所を付け加えることで大きく変わってしまう。
僕のいるラオスでは、サッカーはとても人気が高く、非常に多くの人がサッカーをプレーする。
しかし、ラオスのプロサッカーリーグはとなると人気が大きく下がる。
メジャースポーツであり、マイナーだと思った。
最後に
僕はこれまで、スポーツは自分がやりたいと思い、努力をすれば成長をする可能性が大きくあり、それは平等なものだと思っていた。
しかし、世界には情熱はあるけれど、それを発揮するための環境が得られない人たちもいる。
そして、僕は女子サッカーの環境についても思うことがあります。
僕はモンゴルで15歳以下の代表選手たちへの指導や、現地で滞在する中で「サッカーを教えて欲しい」と頼まれることすら多くあった。
そして、その中の選手に日本でサッカーをしたい!という希望を持っている選手がいた。なぜなら、日本はワールドカップで優勝をしているからだ。
女子のサッカー日本代表は世界一になった経験があるんだ。
それにも関わらず、僕の知る限りでは厳しい環境の中でも頑張っている選手も少なくない。世界から見ると紛れもなく世界一の国なんです。
しかし、そのスポーツ環境というのはまだまだ厳しい。
ここに、僕は男子としてサッカーをすることはサッカーボール一つあればできると思っていたことが少し恥ずかしくなった。
なぜなら、男子である僕はそういった苦労がなかったからだ。
だからこそ、そういう面にも目を向けていきたい。
熱があるところに環境が整うように。スポーツが人々にエネルギーを与えられると僕は信じています。
こうした格差がある現実が、東南アジアの子供たちへ目標や目的を持つ大切さを失わせつつあると思っています。
その熱が消えてしまう前に、少しでも考え、取り組んでいきたいと改めて思いました。