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グレゴワール・シャマユー著『ドローンの哲学 遠隔テクノロジーと〈無人化〉する戦争』
ドローンを用いた戦争による死倫理学についての哲学的探究.非常に面白い.建築民には,Forensic Architectureのエイヤル・ワイツマンの言説の参照が複数ある点も見所かも.
本書が扱うのは,「武器を装備した飛行型ドローン=ハンター・キラー」について.
その技術を〈持つ者〉と〈持たざる者〉に分断してしまったことで,これまで戦争が暗黙裡に相互承認していた“殺しあうがゆえに”無罪化されていた人殺しの権利が失効することになった.
本来,ハンター・キラーは,戦闘員の死を回避するための,そしてより双方の被害を少なくするための手段として採用された.その結果,前近代的な,帝国主義的に一方向的な力の行使が為されるようになる.ここにおいて最重要視されているのが〈死倫理学〉,つまりそれは“善く殺すことについての教義であ”り,
人殺しを自己満足的な道徳的評価の対象とするために、そのやり方について云々するものである.(p.173)
しかし,そこに残るのは,道徳的な倫理観のそれというよりは,より動物的な「狩猟」に近しい行為ではないだろうか.
〈持つ者〉は〈死倫理学〉を通してハンター・キラーによる文字通りの「狩り」を肯定する.
ドローンの使用が正当化されるのは、その代わりに使用可能だったほかの武器にくらべて副次的被害がより少ないためだと主張される(p.216)
からだが,ほかの武器はそもそも
評判に関わるコストの点から使用が禁じられており、端的に、ドローンの代わりにこれを用いることはそもそもありえなかった(p.216)
としたらどうだろうか.民間人の犠牲者数は
ドローン攻撃を用いなかった場合にくらべてより低くなることはない。ドローン攻撃を用いなかった場合には、攻撃によって殺される民間人の数はまさしくゼロであろう.(p.216-217)
このモラル・ハザードとも言える状況に対して,一方で,NOを突き付けられるかどうかは難しい議論である.だが,個々人の死の価値を天秤にかけるのは避けられるべきである.そして願わくば,〈死倫理学〉というおぞましい道徳観ではない次元で世界を見渡せるようでありたい.
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〈死倫理学〉の話は,ブライドッティ『ポスト・ヒューマン』で参照されている,アキーユ・ンベンベの「死 - 政治[ネクロポリティクス]」の議論と繋がる気がする.
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