ペルーの雨
今日は一日中雨が降っていた。
頭痛持ちなので、低気圧だとすぐに頭が痛くなる。
でも今日は大丈夫だった。
午前遅くに起きてカーテンを開けた。
ベランダから駅前が見える。
風も強いようだ。
週末の外出自粛要請と相まって、街に人がいない。
キッチンで顔を洗う。
今日は寝癖がない。
コーヒーを淹れようと思ったが、豆があと少ししかなかった。
昨日書き付けたメモには、いつも豆を買う店の名前があった。
雨だけど、頭痛はしない。
だから、出掛けることに憂鬱はない。
そして、これは必要最低限の外出だ。
適当に上着を着て家を出る。
実際外に出てみると、想像よりずっと風が吹いている。
少し入り組んだ路地を抜けて家の前の道に出る。
この街は山の斜面にへばりつくように家々が連なりあっているので、どこも入り組んでいる。
表から、右に行けば駅があり、左に商店街がある。
商店街は方角で言うと東に伸びている。
移り変わりの激しい通りだ。
近年観光都市として盛り上がりを見せていた街だが、コロナの影響は大きい。
流行りのラーメン屋や居酒屋は軒並み貼り紙がしてある。
"コロナのため休業中"
誰かこの貼り紙を日本中で集めると、いずれ面白いかもしれない。
目的の店には、商店街の入り口から5分も歩かずに着く。
豆の焙煎と販売を専門にしている小さな店だ。
この街で手に入る豆の中では、比較的質の良いものが買えるので、よく利用している。
中に入ると店内の半分は販売用のコーヒー豆に占拠されている。
奥にロースターがあって、いつも誰かが作業している。
豆は大きなガラス壜に入っている。
ブレンドは1か2種類で、あとは産地のものだ。
新鮮な豆には値札に"New"と書かれている。
私はいつも直観と、この「New」で豆を決める。
この「New」がどれくらい信用できるかは分からない。
しかし、コーヒー豆を買うのに最も気にしなければならないのは鮮度だ。
鮮度以外はあとまわし。
もちろん並んでいる商品が一定の質である店においては、だ。
この「New」のおかげで、優柔不断な私は悩まずに済む。
今日は「ペルー」に"New"と書かれていた。
他にもいくつか"New"はあった。
が、先々週来たときもあったものだ。
まぁ、1ヶ月はNewでも構わないだろう。
「ペルー」は最近来たものとみえたので、即決した。
いつも200グラム買う。
だいたい2、3週間で飲むので、鮮度との兼ね合いで一番無難な量だ。
注文するとお決まりのセリフ。
『豆はお挽きしますか?』
『いえ、そのままで。』
ここ1年ほとんど浮気せずに贔屓しているが、毎回訊かれる。
まぁ、正直、別にいい。
適度な距離感が好きだし、毎回お客の状況は違うかもしれない、という心遣いから来ている接客だと思う。
こんな田舎のコーヒーロースターで、顧客の顔を覚えていないわけはない。
豆の種類は、だいたいなんでも好きだがペルー産に出会うのは久々なので嬉しい。
豆をパッケージしてもらっている短い間、私はペルーの人々のことを考えていた。
ペルーでは、喫茶店で、日本のようなコーヒーは出てこない。
自国で育む上質な豆は、大切な外貨獲得資源なので、そのほとんどが、アメリカや日本などに輸出される。
だから、国内で消費されるのは、僅かに手元に残った分しかない。
そのため、ペルーではコーヒーを頼むと、お湯が入ったカップが出てくる。
加えて、日本で言う醤油差しのようなものが一緒に出て来て、そこに濃厚なコーヒーが溜まっている。
それをカップのお湯に注いで好みの濃さのコーヒーに仕上げるのだ。
日本でいうアメリカン(ブレンドのお湯割り)の、質が落ちたようなものだと言える。
人生はよく分からない。
ペルーの人たちは、多くの場合、自分たちのコーヒーの本当の味を知らないかもしれないのだ。
しかし、『ペルー?あ、マチュピチュか、アンデス山脈のとこだよね。へぇ、ナスカの地上絵もか。行ってみたいねぇ。』とか呑気に過ごしている日本人の若者は、その美味しさを知っている。
どうしてこうなったのだろう。
単純に、よく分からない。
いや、分かる。が、分かるということは、心の疑念をまっすぐには晴らさない。
いくら歴史的経緯や市場ルートを理解しても、根本の「なぜ」には届かない。
ペルーの人たちがコーヒー豆を育てるのは、それが美味しいからではない。
それが必要とされて、貨幣価値に換金され得るからだ。
ペルーの人たちがコーヒーと同じようにコカの葉を育てるのも、それが必要とされて、貨幣価値に換金され得るからだ。
そのあと日本の若者の手に200グラム1500円で売られようが、ニューヨークのジャンキーに1グラム90ドルで売られようが関係ない。
彼らには休まずそれを作り、納品する以外にないのだ。
でなければ、金はなく、明日は一斉保証されないのだから。
生まれた環境は、何の言い訳にも理由にもならない。
それは、ただ自分の意思に関係なく、「そうある」ことに過ぎない。
それが恵まれているか恵まれていないか、誰に絶対的な判断が可能か。
誰にもできない。
「存在」の必然の前提は覆せないし、比較することで確かめられるのは、自分とは別の「在り方」もある、というそれだけではないか。
ペルーの天気予報は、ここでは役に立たない。
さっき夕飯を食べているとき、「ほろよい」のパッケージデザインを見ていて、またペルーを思い出した。
「ほろよい」には、"いつも"どこかに「New!」とか「新!」とか書いてある。
こんなものはあってもなくても構わない。
「New」という表示は、現実のいかなる状況とも無関係に、ただ、現在に、浮遊している。
今日はずっと雨だった。
私が飲んでいるペルーのコーヒー。
それが収穫された日、ペルーはよく晴れて、乾燥した大地に人々の影がくっきりと落ちていたことだろう。