"Any volunteers?" ・  ・  ・

雑談。

今日はすごく久しぶりにバスに乗った。

31日にあらゆるものの締め切りがあり,ちょっと切羽詰まってきた私は自宅で使える集中力の全てを使い果たしたらしく,止むを得ず外に出て作業をすることに。

(そこまでしたのに結局疲れてしまったので,気分転換に20分だけどうでもいいことを書く時間を今取っている。本当に20分で終わるつもりだし,後で続きを書こうと思うほどのことではないので,変なところで終わって投稿される可能性もある)

というわけでバスに乗って静岡駅の方へ移動。

どこで作業するとも決めていなかったがとりあえずまぁ静岡駅で降りてから考えよう。

車内ではずっと隙間時間にゆったり読もうと思って放置していた橋本幸士さんの『物理学者のすごい思考法』を読む。

15分ほどバスに揺られながら,少々酔いはじめたところで「次は静岡駅前です。お降りの方はボタンでおしらせください」のアナウンス。

誰もボタンを押さない。

段々と静岡駅が近づく。

運転手さん「まもなく静岡駅です。お降りの方はボタンでお知らせください」

え?誰も静岡駅で降りない?

「他の人も大体は静岡駅で降りるだろうから,誰か押してくれるだろう」と踏んでいた僕は橋本先生の小学校1年生で習う漢字の約半分が左右対称という事実の発見に一人で大盛り上がりしていたのでボタンを押すという行為に手間を取られたくなった。

他の人たちはみんなスマホを見ているか,何もせずどこかを見つめている。みんな僕よりは退屈そうだ。知的興奮の最中にいる僕ではなくて,退屈そうな他の誰かにボタンを押してもらいたい。

しかし一向にボタンが押される音は聞こえてこない。

そしてまた,

「まもなく静岡駅です。お降りの方はボタンでお知らせください」

いや,てか運転手さんももうよくない?静岡駅で乗ってくる人だっていっぱいいるからどうせ止まるんでしょ?何回もアナウンスするってことは,多くの人が静岡駅で降りるって分かってるからでしょ?もうよくない?

そう思ったものの「お降りの方はボタンでお知らせください」を度々無視した挙句,静岡駅に着いた途端みんなが一斉に席を立つという光景は,なんだか運転手さんに申し訳ない気もした。

そして,もし僕の最悪のケースの想定が当たった場合,静岡駅で降りるのは僕だけで,散々運転手さんを無視した男が一人席を立ち,周りの乗客から白い目で見られるのだ。

それはなんとしてでも避けたい。

こんなことを考えている時点でとっくに物理学者の頭の中を覗き見する喜びは減退していた。

ダメだ,もう押そう。他の乗客のため,運転手さんのため,そして何より自分のモヤモヤを晴らすために。

ピンポーン♪

こちらの気持ちなど何も考えやしない無邪気な音が車内に響く。

「はい。次静岡駅,止まりま〜す」

律儀にもコミュニケーションのキャッチボールをきちんと成立させてくる運転手さん。

僕は「ほら,俺が押さなかったら止まらないつもりだったかもよ?みんな困るでしょ?」と小さな「社会貢献」を誇らしく思った。

それから1分もしないうちにバスは静岡駅前に到着した。

「静岡駅前です。ご乗車ありがとうございます」

そのアナウンスを聞くや否や周囲の人間が一人残らず席を立った。


僕は呆気にとられた。


運転手さんにここで停車するようにお願いしたのは僕なのに,誰一人僕に感謝の意も示そうとはしない。

皆が当たり前のように席を立ち,ICカードやスマホを手に構え,ゾロゾロと列をなす。

小中高とずっとサッカー部でゴールキーパーをしていた僕は,日常生活で自分の後ろに人がいることをそこそこ強く嫌う。
だからバスは最後部の座席を狙うことはもちろん,降りるときも一番最後になるようにみんなが降りるのをひたすら待つ。

今日は最後部は取れなかったが僕より後ろの乗客が全員僕より前に歩を進めるまで,じっと座席に座って待っていた。

だから僕の横を何人もの人が通過する。

しかし,誰一人,会釈の一つもしない。

まるで静岡駅で下車する権利を自らの力で得たかのように我が物顔で降りていく。

許せない。

とまでは言わないが,なんだろうこのモヤモヤは。

バスを静岡駅で止めるためにボタンを押す。

誰がやってもよかった。

誰かがやらなければいけなかった。

いや,正直誰もやらなくてもその場はどうにかなっただろう。

結局静岡駅でも乗ってくる人はいたからバスは止まったはずだ。

そんなことは静岡に来てからもう7年も経っている自分にだって分かっている。

それでも,投げかけられたコミュニケーションの第一球を,それも仕切り直しで2回も投げられた球を,受け取って投げ返さずにはいられなかった。

それは自分じゃなくても他の人がやってくれても全然良かったが,他の人がやってくれる気配はなかった。

だから僕がやってあげた。

そしたら誰も感謝の意も表さず,ただバスが止まった恩恵を当たり前のように受けている。


9月1日からオンラインで学校が再開する。

授業中に「誰かチャットで答えて〜」などと生徒に投げかけることはよくある。

どうだろう。

それが多くの生徒にとって答えが分かりきっているような問題だった時,

つまり,答えても自分にとって特に何もいいことはないし,

自分が答えなくても他のみんなも分かっているだろうと予測がつくし,

最悪誰も答えなくたって先生は答えを教えないわけにはいかないから結局は正解は発表されるだろう。


誰か答えてくれるだろうか。


答えてくれた生徒は,そのことへの感謝を十分に周りから受け取れているだろうか。


「自分が答えたい」「答えてやろう」と思える投げかけとはなんだろうか。


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