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ネズラ1964の音楽 5

Twitterでネズラ1964の感想が色々出ていますが、音楽が良いとおっしゃってくださる方々もいらして、中には昔の大学の友人が映画を観たとメッセージをくださったり、大変嬉しく存じます。

対位法について

さて、今回は「対位法」という言葉について書いてみたいと思います。一般の音楽用語と、映画音楽用語の2つの意味があります。それぞれ全く異なる意味を持つので、注意が必要です。

一般の音楽用語としての対位法

まず一般の音楽用語としての「対位法 counterpoint」は、簡単にまとめると「2つ以上の旋律が重なった時に、それらがどのように進むかについての規則」と言うことができます。似たような規則として「和声 harmony」がありますが、和声が縦の響きを決めていく規則であるのに対して、対位法は横の旋律の流れ方を決めていく規則と言えるでしょう。
フックスという作曲家が「グラドゥス・アド・パルナッスム」という対位法の教科書をまとめて以来、今日に至るまで対位法は作曲の基礎訓練の重要な課題の一つとなっています。時代によって、パレストリーナ様式、バッハ様式などがあります。対位法を具体的に表した楽曲の形式がフーガであり、バッハはフーガの大家として知られます。
バッハよりも後の作曲家たちも、それらに倣った習作を書くのが作曲家を目指す上の修行過程の一つであり、また作曲家が成熟してからも対位法に基づいたフーガを自らの作品の中に取り入れました。モーツァルトの遺作であるレクイエムではキリエ(主よ、哀れみたまえ)の部分でフーガが出てきますし、モーツァルトの死後にレクイエムを補筆完成させた弟子のジュスマイヤーは、全く同じフーガを終曲ルクス・エテルナ(永遠の光)でも用いています。ベートーヴェンも弦楽四重奏曲第13番の終楽章とするつもりで「大フーガ」を書いています(最終的には13番とは独立した作品となっています)。
シューベルトは晩年に対位法を学び直したいと一念発起し、ゼヒターという対位法の名教師について学び始めますが、残念ながらわずか数回習っただけで、病に倒れてそのまま没しました。初期ロマン派音楽を代表する歌曲王のシューベルトがもし対位法を修得して長生きしたら、どのような音楽を書いていたことでしょう。
その同じゼヒターのもとで、後にはブルックナーも対位法を学んでいます。ブルックナーは後期ロマン派時代における文字通り対位法の大家であり、彼の11曲(うち番号付き9曲)の交響曲の全てには、至る所に対位法の影響が現れています。
またショパンやドビュッシーは一見すると対位法とは全く縁のなさそうな作曲家ですが、彼らも習作時代に書いたフーガが残っています。
20世紀の近代・現代になっても対位法は重視されています。シェーンベルクは対位法(および和声)の教科書を書いていますが、のちに自らの作曲理論として確立されたドデカフォニー(十二音技法)も、対位法的な発想が色濃く現れています。バルトークは「弦楽器、打楽器、チェレスタのための音楽」の第1楽章で、従来の対位法とは異なる彼自身の語法でフーガを書いています。

映画音楽用語としての対位法

一方で、映画音楽における「対位法」という言葉は、上記とは全く別の意味を指します。悲しい場面なのに楽しい音楽、あるいは楽しい場面なのに悲しい音楽など、映画の画面やあらすじと一見噛み合っていない音楽をわざとつけることを意味します。
ちょうど今日NHK-BSでジャン=リュック・ゴダール監督の映画「勝手にしやがれ」が放送されていましたが、この映画のクライマックスで、主人公のヒモ男ミシェルが殺人犯だと知った女パトリシアは、外のカフェから警察に垂れ込みの電話をかけ、部屋に戻ってミシェルに「警察に電話したの」と告白します。この場面、レコードでモーツァルトをかけるという描写がその前のシーンから続いており、モーツァルト(クラリネット協奏曲?)が流れる中、「警察に電話したの」というセリフが出てきます。この映画はマーシャル・ソラールの作曲したジャズが全編にわたって用いられており、主人公と愛人を表す明確な2つのライトモティーフが交互に現れ、緊迫感のある音楽も他の場面で散々使用されているのに、肝心なこの台詞でモーツァルトが流れるのは、場面の雰囲気と全く噛み合っていません。そこがかえって映画の観客に、深みやダブル・ミーニングを連想させます。

もう一つの例として、「ゴジラ」で有名な作曲家の伊福部昭は、映画音楽のデビュー作として「銀嶺の果て」(監督:谷口千吉)を担当しましたが、この映画の中で主人公のギャングがハル坊という若い女の子(昔は年頃の若い女性に坊とかベエとかの男風のあだ名をつけて呼ぶことで愛情を表した)と山でスキーを楽しむ唯一の明るい場面で、伊福部の音楽はイングリッシュホルン1本で悲しげな音楽をつけています。谷口は自分の思っていた楽しげな雰囲気と正反対の音楽であったため伊福部と口論になりましたが、脚本の黒澤明が仲裁して、結局は伊福部の書いたとおりの音楽が採用されました。


「ネズラ1964」でのフーガ楽曲

「ネズラ1964」では、この2つの意味の「対位法」のどちらにも当てはまる曲として、フーガ楽曲を書いています。主題はもちろん「ネズラマーチ」から取られています。
最初がイングリッシュホルン・ソロで始まるのは、伊福部昭の「銀嶺の果て」へのオマージュを意識しています。最初は管楽器+ピアノで4拍子で始まりますが、途中で弦楽器に交代して3拍子になり、クライマックスの後でまた4拍子に戻ります。
楽曲の終盤で平行移動が発生し、これは本来の対位法の規則からいうと大目玉もいいところで、例えばこれが作曲科の期末試験であれば即座に赤点失格となるわけですが、もちろんこれはわざとで、この部分はバッハ風ではなく、ブルックナーが好んで用いたユニゾンや平行移動を意識して書いています。

で、この楽曲は本来なら、冒頭のシーンと同じ場面が後半で再現されるところで使いたかったのです。それで「映画音楽の対位法」としての、場面から見た音楽の意外性に繋がる、というふうに計算して書いた楽曲なのですが、実際は監督がその場面は音楽無しで行きたい、ということで、無しになりました。
代わりに中盤の台本朗読シーンにこの楽曲が使われたのですが、この台本朗読というのは当初の脚本第1稿にはなく、後の稿で付け足されたものでした。その朗読シーンの台本を読んだ時に、実際の映像の尺がわからない状態でコロコロと場面転換する音楽を書くのはまず不可能だと頭を抱えたのですが、最終的にはこのフーガの音楽が朗読シーン全体に流れてマッチしていたので、良かったと思いました。

オリンピックマーチ

実はさらにいうと、音楽が作曲されてアンサンブルの生演奏収録が終わってから付け足された、音楽担当の自分が映画完成を見るまで知らなかった場面が存在します。「ミラクルQ」の発表場面というのがまさにそれで、あそこに流れていた場面は、その少し後に同じニュースアナウンサーが読んでいた1964年東京オリンピックのニュースを想定して書いた「オリンピックマーチ」だったわけです。もちろんこれも「ネズラマーチ」のテーマを変奏したものです。それがカリカチュア風に流れることで、映画が頓挫したネズラ・スタッフの無念さを逆に煽り立てる「映画音楽の対位法」を意識したのです。テレビから流れてくる、というのは当初から決まっていたので、EQカットのエフェクトがかかることを前提に書いています。特に本来なら避けられる傾向にあるヴァイオリンのE線開放弦の和音を多用しているのはそのためです。
とは言え「ミラクルQ」が出てくるなら、もう少しその元ネタのウルトラQの主題曲(宮内國郎・作曲)に近づけても良かったかなと思いました。というのも、宮内國郎特集「チャージマン研!」ライブシネマ・コンサートというのが2018年に2回と2019年の計3回行われており、私はその全てで編曲に関わっており、もちろんウルトラQやウルトラマンの編曲も手掛けています。
とはいえハ長調の単純明快なこの楽曲は、ウルトラQというよりはウルトラマンの主題歌に似た雰囲気とも言え、またそれが流れることによってやはり「映画黄金時代の終焉からテレビ黄金時代への変遷」を表すわけで、やはり「映画音楽の対位法」と言えなくもないかな、と思います。

終わりに

長々と書きましたが、「ネズラ1964」は明日1月22日金曜日までの公開ですので、緊急事態宣言下ではありますが無理のない範囲で、ご都合のよろしい方はぜひ池袋まで足をお運び下さい。
明日最終日は、螢雪次朗さん、斉藤麻衣さん、横川寛人監督のフォトセッション、および(無観客)トークショー(後に配信)も予定されています。


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