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自分史(幼少期〜高校卒業)【100日投稿11日目】

こんにちは、たくやです!

2021年3月31日に警察官を辞め、現在は3名の仲間とともに貿易家として活動する傍ら、挑戦するパパコミュニティ「DADDIES」の一員としていくつになっても挑戦し続ける「かっこいいパパ」を目指す34歳です。(5月27日で35歳になります)

2021年5月7日に「note毎日執筆100日宣言」をしてから今日で11日目になります。

今回は自分の過去を詳細に振り返り、これまで自分が体験したこと、それに対して何を思ったのか、どう感じたのかを振り返ることで自分自身の新たな気づきを見つけていこうと思い「自分史」というテーマで書いてみました。

めちゃくちゃ長くなりそうなので

・「幼少期〜高校卒業」編

・「高校卒業〜貿易家」編

に分けて書いていこうと思います。

結論から言うと、この「自分史」をやってよかったです。

・自分はなぜ挑戦するのか?
・自分の強みは何なのか?
・その強みのルーツは何なのか?

これらの発見があった以外に、自分の中にある不安、不満、期待、在りたい姿を言語化することで、気持ちが整理され、これからやるべきこと、やらないことが明確になりました

長くなりますが前編・後編におよぶ私の人生を読んでいただければ幸いです。


1. 幼少期〜自信が持てなかった〜


【ワガママなおばあちゃん子】

美容院を営む両親のもと、第2子として生まれた私は、とにかく近所のおばさまからのアイドルだった。

当時流行っていた?襟足を伸ばした髪型で愛想のいい笑顔を振りまき、人気者だった。

両親ふたりで美容院を営んでいたので、日中は母方のおばあちゃん家にいることが多かった。そのおかげで、私はおばあちゃんが大好きだった。おばあちゃんも、おじいちゃんも、私に特別な愛情を注いでくれていた。

おじいちゃんとは、よく家にあったおじいちゃんのゴルフのパター練習セットで遊び、パッティングの腕を磨いていった。

おばあちゃんは、毎日僕が食べきれないくらいご飯を炊いて、ご飯の上には私が大好きだった雑魚をまぶして、その上から醤油をかけるスタイルで、めちゃくちゃ食べさせられた。おかげで今でも大食感。

でもご飯が少しでも冷めていたり、硬かったりしたら一切食べない、そんなワガママな子供だった。

あとはとにかく「鈍臭い子」だった。

今でも両親や姉から言われるが、なぜか毎日のように犬のウンコを踏んで帰ってきたり、おしっこのタイミングがわからずにいつも漏らしていた。(たぶん小学校1年生くらいまで続いた)

私は基本的に熱中すると周りが見えなくなるタイプ。

今も仕事が楽しすぎて、家の中でも出かけていても常にビジネスのことを考えている。だから家事をしててもまったく集中力がない。

おかげで最近、食洗機のボタンを推し忘れるという失敗を5日連続したことで、さすがに妻に怒られた。


【仕方なく少年サッカーチームに入団】

熱狂的なジャイアンツファンであった父の影響で、小さな頃から野球が大好き。週末に父と空き地で野球をするのが日課きだった。

父と野球をやる時は、当時のジャイアンツの選手のモノマネと応援歌を忠実に再現するぐらい、野球が大好きだった。(自分でもかなりモノマネが得意だったと思う)

「将来は強豪校に入って甲子園に出て、ドラフト1位でプロ野球選手になる」

これが最初に願った夢だった。

想定外だったのは、私が住む地域には少年野球チームがなかったこと。

隣町まで行って野球をやるという選択肢すらなかった私は当時、県大会に出場が決まっていた少年サッカーチームに入団することにした。理由は特にない。この時、小学校2年生。

小学校1年生の終わりに引っ越したせいか、小学校1年生の時の記憶がまったくない。思い出と言えるのは、お金持ちの友人の家でもらった大きな飴玉を飲み込んだときに喉に詰まらせ、呼吸ができなくなって死ぬかと思った出来事くらいか。

入団したサッカーチームで、希望するポジションはもちろんフォワードだった。点を取って目立ちたい。理由はただそれだけ。でも、「背が高い」という理由でゴールキーパーになるはめに。希望と真逆のポジションにただただ落胆した。

ただ自分で言うのも何だが、ゴールキーパーのセンスはかなりあったと思う。実際、恵まれた身長と反射神経の良さで、すぐにレギュラーの座を掴んだ。でも満足はやっぱり出来なかった。

「俺は点を取って目立ちたい」

コーチに何度も直訴したことで、晴れてフィールドプレーヤーに。でもポジションはディフェンダー。これ以降、私のポジションが前に行くことはなく、サッカー人生の全てをほぼディフェンダーとして過ごすことに。

そもそも私はずっと野球がやりたかった。でも野球ができる環境がそこになかった。だから仕方なくサッカーを始めた。こんなモチベーションだから、当然上達しない。そもそも向上心もなかった。

「中学生になったら野球部に絶対入る!」

そう心に決めていた。だが、ある出来事から気持ちが急激にサッカーへと向いていった。


【地域選抜チームの一員に選出】

小学校5年生の時に転機が訪れた。それまで平凡だった選手が、おそらく背が高いという理由(それ以外に考えられない)で、地域選抜チームの選手に選ばれた。

ただ私自身はめちゃくちゃ嫌だった。中学になったらサッカーを辞めるつもりなのに、なぜ下手くそな自分が、自ら恥をかくような場所に行かなければいけないのか。ただの恥さらしじゃないか!そんなことを考えながら毎回、胃が痛くなる思いで練習、大会に参加していた。

ところが選抜チームとしての大会期間を終え、所属チームでの練習を再開した時に、自分でも驚く変化を感じた。それまで自分のプレーに精一杯で、「下手な自分をいかに隠すか」ばかり考えていた。

でもレベルの高い環境に身を置いたことで、顔をあげて堂々とプレー出来るようになった。そしてこの日から、周囲の目も変わった。チームにとって欠かせない選手になったと実感した瞬間だった。

レベルの高い環境に身を置くことで、無意識のうちに自分の視座が高くなり、自信を深めたことによって、所属チームでのパフォーマンスが上がった。これは生きていく上でもすごく大切なこと。

視座が高く、ビジョンを持ってプレー(活動)している人と同じ空間、時間を共有することで、自分の意識も自然と周りに引っ張られる。そして、そこで得た経験や知識を異なるフィールド(会社など)でアウトプットすることで、自分の行動、そして周囲の自分に対する見方も変わり、自信を持って行動出来るようになる。そんなことを学んだ気がする。もちろん、これは大人になってからわかったことだが。


2. 中学生時代〜人生観が形成された出来事〜


【トラウマ】

中学生になったら絶対に野球部に入ると思っていた私も、先に述べた成功体験をきっかけに、サッカーが楽しくなり、いつしか

「将来はプロサッカー選手になりたい」

と思うようになった。

部活では1年生の頃から試合に出してもらい、部活内でも、そして学校でも一目を置かれる学生となった。

入学してすぐ、同級生の女の子と初めてお付き合いすることになったが、互いに恋愛というものがあまりわかっていなかったこともあって、付き合って数ヶ月後には別れを告げることを選んだ。

当時は携帯電話もなかったから、連絡を取るときは自宅の固定電話。毎回彼女の親が出るんじゃないかとハラハラしながら電話していたことを今でも覚えている。

別れ話を行った翌日、彼女は友人数名を連れて私の家に押しかけ、別れた理由の説明を求めてきた。これには本当に参った。近所の目もあるから余計にきつかった。

さらにその翌日からは、彼女の指示なのか学校中の女子が私を無視するようになった。無視するだけならまだマシ。すれ違えば学校中の女子から「チッ」と舌打ちされる始末。仲良かった女友達でさえも。授業中、私が発言してもあちこちから舌打ちが聞こえる、そんな日々がしばらく続いた。

その後、数ヶ月で彼女の影響力も徐々に弱まっていき、私を無視する人も次第にいなくなっていった。また、かつての日常が戻った。

でも、この時の強烈な体験は、私の中に「嫌われる怖さ」を植え付け、その後何十年も続く自分のトラウマとなった。

その後、私はサッカー部のキャプテンになり、学級委員長、生徒会活動を行うことで、周囲からの信頼を勝ち取った。

ただ信頼を得れば得るほど「嫌われるのが怖い」という思いが強くなり、信頼を失えば、またあの悪夢の日々が訪れると本気で思っていた。

だから周囲がイメージする「自分」に自ら合わせ、自分でも本当の「自分」がわからなくなってしまった。周りの期待に答えようとするあまり、自分の個性は一切殺してしまったのだ。

それは、その後の人生における自分の価値観となった。


【顧問のいないサッカー部のキャプテン】

私の所属したサッカー部は当時、市内でも指導力に定評のある先生が顧問をされていることもあって、市内では無類を強さを誇っていた。(めちゃくちゃ怖い先生だった)

小学校高学年からサッカーに対する自信を身につけた私は、「中学に入ったら野球部に入る」という夢は忘れ、迷うことなくサッカー部に入った。

1年生の時から3年生の試合に出させてもらい、北摂地域の選抜にも選ばれた。まさにサッカー人生の絶頂期だった。(絶頂期早すぎる)

しかし、私が2年生になり新チームを率いるキャプテンに就任したタイミングで、顧問の先生がライバル校へ異動してしまった。

新しくサッカー部の顧問となった先生は、サッカーの指導経験のない先生で、「練習メニューや先発メンバーはキャプテンのお前に任せる」と丸投げされた。

むちゃくちゃな話だが、今思えばこの時に自分の個性が大きく伸びるきっかけとなった。

私はこれまでプレイヤーとしてサッカーを見てきたが、顧問の先生に全権委任されたことによって、クラブ運営、チームのモチベーション維持、選手の個性を生かしたポジション配置、手元の人材をやりくりする手腕、そのすべてを自分一人で担うこととなった。つまりプレイングマネージャーとしての立ち位置に自分が置かれたことによって、これまでと見える景色が180度変わった。

チームメイトの個性を伸ばし、その個性を生かしたフォーメーションやポジション配置を考えたりすることが楽しかった。今思えば、自分は組織の中で生きるより、自ら組織をつくって活動する方が向いていたんだと思う。そう考えると、自分が選んだ脱公務員という生き方は正解だったのかもしれない。

中学サッカー部では思ったような結果が残せなかった。やはり指導者不在という環境はあまりにも大きく、どれだけ自分がキャプテンシーを発揮したとしても、「自らやる側」と「やらされる側」の部員を同じ部員という立場でコントロールするのは非常に難しかった。プレイングマネージャーという立ち位置がいかに難しいかということがわかった。



3. 高校時代〜夢や希望を見失い、彷徨った3年間〜


【サッカー部を退部(天狗時代)】

高校は地元の公立高校に進学した。特別頭がいい学校でもないし、サッカーの強豪校でもない。サッカーでレベルの高い環境に身を置きたいと思ったこともあったが、経済的な面で両親が公立校への進学を求めていたので、私立校へ行くという選択肢はなかった。

高校の同級生は3分の2が中学時代の同級生だったので、さほど変わり映えのない光景だった。部活はもちろん、迷うことなくサッカー部を選んだ。

中学時代からキャプテン、地域選抜に選ばれていたこともあって、1年生からベンチ入りを果たすことができた。この周囲の期待を一身に受け、完全に自分は天狗になっていた。チームや監督は間違いなく自分を求めていると思っていた。

当時、サッカー部の監督だったN先生は、阪神地域選抜の監督を務められている方で、部員個々に求めるレベルは非常に高く、とても厳しい先生だった。

もちろん先生の私に対する要求は高く、自分がいいプレーをしても褒められることはなかった。むしろ何をやっても怒られていたような印象だった。

当時、選手として絶頂期かつ天狗期だった私は、先生に怒られることが受け入れられなかったし、先生の方針が理解できなかった。今思えば、期待の裏返しから私に高いレベルを要求してくれていたにも関わらず、それに気づかず、次第に先生の指導方針に疑問を抱くようになってしまった。

「なんで俺ばっかり怒られるねん!俺よりできてない人いっぱいいるやんけ!先生は俺のこと嫌ってるからそう言うんやろ!」

決定打だったのは、中学時代から選ばれ続けていた地域選抜チームに選ばれなかったこと。しかも自分より下手だって思ってた部員が選ばれたことで、完全に先生への信頼を失ってしまった。本当に愚かなマインドだったと思う。先生を憎み、選ばれたチームメイトに嫉妬する・・・でも、当時の私にはどうすることもできなかった。完全に挫折。天狗の鼻を思いっきり折られた瞬間だった。

数日後には両親とN先生に退部の意向を伝えた。母は私の話を聞いて泣いていた。私がサッカーをする姿が大好きだったって。父も残念そうだった。父は私が小学校の頃からずっと試合を見に来てくれていた1番の理解者だった。そしてN先生も驚いていた。でも私を引き止めることはしなかった。もしかしたらどこかで勘づいていたのかもしれない。

周囲には驚きと哀れみの顔で見られた。この時、まだ1年生。

それからの2年間、夢や目標、希望も何もないまま本当になんとなく高校生活を送っていった。クラスメイトに推されて体育祭の応援団長はやったが、それ以外で表舞台に立つことはなかった。

未だにこの高校生活にすごく後悔している。なんで我慢できなかったんだろう?なんで周りの意見をもっと聞かなかったんだろう?

サッカー部の引退試合をこっそり見に行った。かつてのチームメイトの勇士をみるために。試合は1点を追う緊迫したゲーム。小学校からずっと一緒にサッカーをやってきた幼馴染のクロスが起点となって同点ゴールが生まれた時、思わず声を出して立ち上がった。

しかしその後、チームは追加点を奪われ2-1の敗戦。彼らの3年間が終わった。敗戦はしたが、強豪相手に堂々と戦い、悔しさで涙を流す彼らの姿に心打たれたと同時に、後悔の念が死ぬほど押し寄せてきた。

「俺はなんでこのピッチにいないんだろう?なんで辞めたんだろう?この瞬間をピッチの上でチームメイトと一緒に共有したかった・・・」

サッカー部を辞めた後、自宅近くのボクシングジムに通ったり、人数の足りてなかったラグビー部に入ったりしたが、何一つ続かなかった。続いたのは、ガリガリがコンプレックスで始めた筋トレくらい。高校時代の青春の1ページの中に「スポーツ」というものは一切残らなかった。


【妻との出会い】

妻とは中学からの同級生で、高校1年生の時に初めて一緒のクラスになった。同じ中学に3年間通っていたのに、高校に入るまで一度も話したことはなかった。

当時仲がよかった友人を介してメルアドを交換した私たちは、高校2年生となった4月11日に晴れてお付き合いすることとなった。

妻は気が強くて、完璧主義で、買い物でも一円の損も許さない。そんな性格の女性なので、性格が真逆の私にとって理想のパートナーだと思う。

たぶん、妻と高校で出会ってなければ、私の高校生活は何一つ思い出が残らなかったと思う。それぐらい自分の高校生活は暗いものだった。中学時代の自分が絶頂期だっただけに、特にその思いは強い。


【ラグビー部に入部】

当時付き合っていた妻がラグビー部のマネージャーをやっていたのと、ラグビー部員が足りてなかったこともあって、期間限定でラグビー部に入ることに。

サッカー部で鍛えたステップやキックに自信はあったが、そこは素人にバックスを任せられるわけもなく。ロック、もしくはフランカーのポジションだった。

デビューとなった練習試合で、目の前でいきなり副キャプテンがスネの骨を真っ二つに折る重傷を折るという惨劇を目の当たりにして、私のラグビーに対する熱は一気に冷めた。

「こんな怖いスポーツ無理だ」


【ボクシングジムに通う】

ラグビー部での活動と並行してボクシングジムにも通っていた。

今思えば、増量が必要なラグビー部と、減量が必要なボクシングを同時に行うという、なんとも意味不明なことをよく選んだなと今は思う。

ボクシングは当時、仲の良かった先輩の影響で始めた。

練習した分だけ強くなるという点で、すごく面白いスポーツだった。

プロボクサーになりたいという願望はなかったけど、男として強くなり体つきも良くなることにメリットを感じ、大学に入学するまでの約2年間通い続けた。

自分で練習メニューを組み、体重を管理し、足りない部分を努力で補う。

ボクシングのこのスタイルが自分には合っていたと思う。

おそらくルーティン化して物事を進めていくことがある程度自分の性に合っているんだと思う。



※ 最後まで読んでいただき、ありがとうございました!!これからも『かっこいいパパ』になるためのストーリーをこのnoteに書いていきます。もし共感していただけたら「スキ」と「フォロー」していただけると嬉しいです!

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自分史「高校卒業〜貿易家編」は近日公開します!!



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