価値を認められる創作活動とは何か?
創作活動には2種類ある
ライターという仕事をしていることもあり、
創作活動とは何かについて度々考える。
創作活動とは、いってみれば文筆活動だの
作曲活動だの、絵画だの、
その他諸々の芸術活動のことを指すことは、
今更指摘することもない。
しかし僕は、
そこに2種類の創作活動があることを見る。
一つは自分が味わいたいものを
創るというもの。
もう一つは、誰かに何かを訴えるために
創るというもの。
いずれも人に創作への
衝動を起こさせる強い動機になるが、
それぞれ性質が少しばかり違うと
僕は感じている。
自分が味わいたいものを創る創作活動
現代社会では圧倒的に
自分が味わいたいものを創る創作活動が
広く行われているように思う。
「自分が味わいたいものを創る創作活動」とは
いってみれば自己満足の創作活動だ。
これは例えばライターでいえば、
「この言葉やあの表現を使ってみたいから
ものを書く」といった類いだ。
これが絵描きになれば、
このシーンを描いてみたいから、
動画編集者などであれば、
こういう場面を撮影したいから
創作活動をする、
といった具合になる。
こういった動機には、
「誰かに何かを伝えたい」という
メッセージ性はほとんどない。
こういった創作活動は
ただ自分が目的としているものを
作れればそれでいいのであって、
誰かの評価などはある意味どうでもいい。
同人誌などの類は
こうした傾向で作られているものが多い。
そうしたものは自分の理想の世界を
どこまでも表現していきたいという動機で
飽くことなく描かれていく。
承認欲求と創作活動
ただ、「自分が味わいたいものを創る創作活動」
の中には、時折困ったものも入ってくる。
それは他人のためを装いながら、
中身は実質自分のためであるような作品だ。
政治的な意見をする者や、
中途半端なビジネス活動をする者に、
こうした発言や創作活動をする人は多いかな。
自分の承認欲求を満たしたいがための
作品というのがこの類だ。
そういう作品というのは
一見するともっともらしいことを
訴えているように見える。
でも、もっともらしいことは
ただもっともらしいだけで、
作者の本心は訴えていることとはまるで逆
ということがほとんどだ。
「お客様のため」とか「国民のため」
という言葉の中身が
どれだけすっからかんであるかは
今更僕が述べることでもあるまい。
彼らは自分の考えや立場を
守るような言葉や表現であれば、
何が何でももっともらしく聞こえるように
使ってくるものだ。
価値ある創作活動とは何か?
しかし、本心から訴えたいことを
持っている人間というのは、
そうしたどっかから借りてきた
言葉や表現というのは使わないものだ。
彼らは自分が感じたことに対して忠実に
言葉や表現を選ぶ。
そして、自分の中に浮かんできた
言葉や表現がたとえ他人には難解であったり、
もしくはひどく陳腐に見えたとしても、
それをあるがままに周りの人に見せるのだ。
自分が五感でもって感じ、
頭に浮かんできたもの。
それは常に表現するに値するものだ。
僕には絵を趣味にしている友達が一人いる。
彼の絵は、技術的にはさほどうまくはない。
しかし、表現力でいえば一流だ。
その彼の絵の書き方というのが、
ふと何かを感じ、頭に浮かんできたものを、
あるがままに書き綴るという方法なのだ。
絵画の世界で分類するのであれば
シュールレアリスムに属するであろう
独特の世界観を擁する彼の絵は、
どれも見る者の心に強い哲学的な印象を残す。
僕は、価値ある創作活動とは、
そういう見る者、読む者、受け止める者の心に
えもいわれぬ感動や印象を残すものだと
感じている。
そうした意味はわからないが、
えもいわれぬ感触を覚える感動や印象こそが、
感性の成長という人間にとって
次なる創作活動への足がかりとなる
価値となるのだ。
価値を創作するのは案外簡単
こうした人の感性を育てる価値というのは、
自分は目の前の世界に対して何を感じたかを
ただ淡々とありのままに表現するという
単純な創作によって生まれる。
だから、創作活動というと何かと手がかかり、
また優れた技術が必要なようによく思われるが、
実際のところはどこまでも単純で簡単なのだ。
創作活動で必要なのは自分の五感だけである。
自分の五感に忠実になればなるほど、
そこから生まれる創作物が
人に与える印象というのは強くなり、
それとともに価値も大きくなる。
価値を生み出すことは、
多くの人の考えとは違い、
案外簡単なのだ。