【水晶?】御嶽昇仙峡とはなんなのか
御嶽昇仙峡は、山梨県甲府市北部の御嶽村に位置する渓谷で、荒川の流れで侵食された花崗岩が作り出す独特の景色で有名です。
1923年に国の名勝に指定される際に御嶽昇仙峡という名称が付けられました。
最近では「甲州の匠の源流・御嶽昇仙峡~水晶の鼓動が導いた信仰と技、そして先進技術へ~」が日本遺産のストーリーに認定され、改めてその存在に注目が集められています。
今回はこの御嶽昇仙峡と水晶の関係について紹介します。
自然科学的に見た昇仙峡のできかた
昇仙峡の断崖を構成する白い岩は花崗岩と呼ばれる岩石です。
この花崗岩の岩盤を荒川が削ることによって昇仙峡の渓谷は作られました。
花崗岩は一般的には地下10〜8kmほどの深さでマグマがゆっくりと固まってできる岩石です。
昇仙峡の花崗岩は今から1,800万~1,300万年前のマグマの活動によって作られたと考えられています。
その後1,000万年以上の時間をかけて花崗岩の上にあった厚さ8km以上の地層が削剥され、本来地下深くにあった花崗岩が地表に現れました。
ちなみに削剥された地層はどこに行ったのかというと、関東平野を作る堆積物の一部になったと考えられています。
日本地質学会のコラムに掲載された高山信紀氏の見積もりによると、100万年前の荒川は現在よりも北側を流れていて、昇仙峡はまだ存在していなかったと考えられています。
昇仙峡が誕生するきっかけとなったのは、100万~50万年前に噴火した黒富士火山の活動です。
黒富士火山の火砕流が旧荒川の流れをせき止め、荒川の流れを現在の位置へと変更させました。
日本遺産「甲州の匠の源流・御嶽昇仙峡」の構成文化財となっている燕岩岩脈は、荒川の流れを変えさせた黒富士火山の火山岩岩脈を観察することができる文化財(国指定天然記念物)です。
そして、流路を変えた荒川は現在の流路で花崗岩の岩盤を削り、15万年ほど前に仙娥滝などの滝を含む昇仙峡の渓谷が誕生したと考えられています。
金峰山詣と御嶽古道
荒川を遡っていくと、その源流として金峰山にたどり着きます。
この金峰山の山頂にある五丈岩は金櫻神社の本宮となっており、少名彦命《スクナビコナ》の神が祀られています。
昇仙峡に建てられている御岳町の金櫻神社はその里宮にあたります。
江戸時代後期まで金峰山を訪れる人々は御嶽古道という道を行き来していました。
御嶽古道は金峰山への登拝の道で、1814年の『甲斐国志』には9筋の道が記録されています。
その中で、甲府を出て御嶽の金櫻神社を通る道は亀沢や吉沢から山道を通る上道・外道と呼ばれる道でした。
この時はまだ、現在の御嶽昇仙峡を通る道は存在していません。
御岳新道
現在の御嶽昇仙峡を通る道の開発を計画したのは、地元の猪狩村(現在の猪狩町)に住んでいた長田円右衛門という人でした。
円右衛門は人馬が安心して通ることができる生活のための道を造ろうと、近隣の御岳村などと協力し、1834年から工事を開始しました。
1843年に完成した道は御岳新道と呼ばれ、円右衛門は昇仙峡の渓谷美を宣伝して広めていったと伝えられています。
この御嶽新道が完成し、昇仙峡が誕生したことになります。
金峰山と水晶
修験者は御嶽古道を通って金峰山の金櫻神社本宮を目指しましたが、金峰山を登る過程で水晶の産地を通過していきます。
1752年に書かれた『裏見寒話』や、1814年に完成した『甲斐国志』には金峰山で水晶が産することが記されています。
修験者は金峰山詣の帰りに水晶を拾い、金櫻神社里宮のある御岳まで持ち帰ったと言われています。
御岳村から最も近い水晶産地は、上帯那村地内で黒平村・下帯那村との3村が管理する御巣鷹山でした。
しかし、御岳村の人々はこの御巣鷹山での水晶採掘することは許可されていませんでした。
ちなみに、この御巣鷹山に関連して1825年に水晶が盗掘されたので罰してほしいという古文書が見つかっています。
つまり、御嶽新道が開発されて昇仙峡が誕生する以前から、金峰山や御巣鷹山では水晶が採られていたことになります。
この水晶の加工が始まったのは御嶽新道の開発と同時期、1831年~1845年の間のいずれかの時期だと伝えられています。
金櫻神社に伝わる伝承によれば、京都から来た玉屋の弥助という人物が金櫻神社の御師に水晶の研磨方法を伝授したとされています。
1843年に玉研職弥助方で預かっていた水晶玉2つを紛失してしまったことが書かれた古文書が見つかっていることから、この弥助の言い伝えは確からしい伝承と評価されています。
これが山梨における水晶細工の始まりだと位置づけられています。
その後、1846年に御嶽山社家2名が6両の土地代を支払うことで上下帯那村・黒平村から水晶の採掘権を譲渡されたという古文書が見つかっていますので、ようやく御岳村の人たちは御巣鷹山での水晶採掘が可能になりました。
そもそも、御岳村や昇仙峡で水晶が採掘された記録は存在しないのです。
※ 念のため補足しておくと、昇仙峡を流れる荒川が上流の水晶を運んでくることがありますので、昇仙峡で水晶を拾うことは不可能ではないです。
つまり、水晶が採掘されたのは黒平村や上帯名村、水晶の加工が始まったのは御岳村の金櫻神社、その水晶や薪・炭などを流通させるために開発された道が御嶽新道、そして御嶽新道の渓谷美を昇仙峡と呼んだことになります。
ですので、御嶽昇仙峡を水晶の産地と位置付けるには無理があるのです。
この御嶽昇仙峡は水晶の産地ではないということは、日本遺産の関係者も理解しています。
そのため、自治体が文化庁に提出する書類やそれをもとに作られた文化庁のポータルサイトでは昇仙峡が水晶の産地であるという書き方はされていません。
「昇仙峡一帯の山地は水晶の産地」と書いたり「昇仙峡の位置する金峰山一体では水晶が採掘された」と書いたりして「昇仙峡が水晶の産地」とは書かないようになっています。
個人的には、素直に水晶加工発祥の地と書けばよいのにと思っています。
「昇仙峡で採れた水晶だよ」と言われてお土産を買ったのに実は違っていたというのが後からわかったらまた行きたいとは思えませんよね。
観光地としての御嶽昇仙峡
その後、御嶽昇仙峡は観光地として有名になっていきます。
そのきっかけはいくつかありますが、第一のきっかけとして1903年(明治36年)に中央線が甲府駅まで延伸したことをあげることができます。
中央線延伸をきっかけに旅行者が昇仙峡を訪れるようになりました。
明治後期の昇仙峡の旅館広告には、名物として御嶽蕎麦があげられています。
第二のきっかけは、1922年の東宮(後の昭和天皇)による行啓です。
覚円峰下の金渓館で記者団に「耶馬渓を遥かにしのぐ」と語ったことがきっかけで、一躍有名になりました。
その翌年、1923年(大正12年)に御嶽昇仙峡が国の名勝に登録されました。
大正時代後期の昇仙峡の旅館広告には、御嶽そばや温泉のほか、皇族が利用したうちの旅館にぜひ泊まってくださいという広告が見られます。
その後、昇仙峡が観光地として有名になっていくと、旅行案内書にお土産として水晶細工が書かれるようになっていきます。
ただし、当時の旅行案内をみると水晶の産地として向山・水晶峠・乙女など具体的な産地が書かれていて、当時でも昇仙峡で水晶が採れるとは書かれていません(国産などあいまいにしているものはありますが…)。
その後、1931年の満州事変によって日本が戦時体制に入っていくと、昇仙峡も観光どころではなくなっていきます。
第二次世界大戦の終了後、戦後復興に伴う観光旅行の再開を促すため、運輸省観光部・文部省文化財保護課・厚生省国立公園部などが後援となり毎日新聞が新日本観光地百選を選出しました。
10の部門ごとにはがき投票で順位が決定され、組織票が問題になったりもしましたが、昇仙峡は渓谷の部で1位となりました。
各部門の1位となった10か所については、郵政省が「観光地百選」シリーズの記念切手を発売するとともに、国鉄が10月中旬の観光週間に10ヶ所それぞれを目的地とした特別周遊券を発行するなど、国内観光を後押ししました。
昇仙峡で水晶が採れたことになった
1951年に時郵政省が発売した、新日本観光地百選の記念切手を見てみましょう。
ここには「所在地御嶽は古くより水晶の産地として名高い」と書かれています。
振り返ると、金峰山地域での水晶採掘は1880年代がピークで、1900年代には水晶は採掘されなくなっていました。
しかし採掘のピークから70年が過ぎ、観光地としての活動も戦争によって20年分断されていれば、実際に水晶を採掘した記憶は薄れていたでしょう。
そんなタイミングで郵政省という行政機関が「昇仙峡の所在地である御嶽は水晶の産地である」と誤ったお墨付きを与えてしまえば、観光案内や旅行案内で「水晶といえば昇仙峡」というイメージが広まっていくのに時間はかかりませんでした。
※一応フォローしておきますと、この記事の中盤で日本遺産の書類の話を書きましたが、実際には日本遺産ストーリーへの申請書類を作成する段階では教育委員会の中の人たちも昇仙峡で水晶が採れたと思っていました。
騙そうと思っていたわけではなく、間違えて理解していたわけです。
今回の記事の内容は日本遺産登録後の「御嶽昇仙峡エリアに係る総合学術調査(文化遺産)」での研究で明らかになったものです。
昇仙峡のその後
1950年に実施された新日本観光地百選ですが、エントリーには交通機関の終着点から徒歩1時間以内という条件を満たすことが必要でした。
この時、庶民の旅行と言えば電車移動+徒歩orバスでの国内旅行というスタイルが一般的で、自然鑑賞が旅行の主な目的でした。
その後1960年代には高速道路や観光道路の整備が進み、マイカー旅行の時代が到来します。
また、庶民も飛行機による海外への旅に手が届くようになっていき、旅行やレジャーの形態は多様化していきました。
一方で、従来の自然鑑賞や温泉といった旅行は相対的に選択されにくくなってしまいました。
昇仙峡では1964年に昇仙峡ロープウェイが運行を開始し、観光地としての魅力向上に努めていきます。
山梨県では1972年に御岳昇仙峡有料道路を供用開始し(1997年より無料)、渓谷上流の現在の県営駐車場まで車で移動できるようになりました。
もともと、名勝(庭園、橋梁、峡谷、海浜、山岳その他の名勝地の中で、日本にとって芸術上また観賞上価値の高いもの)として観光地となってきた昇仙峡ですので、レジャーの多様化とともに観光客数は減少傾向にあります。
日本遺産のストーリー登録をきっかけに、景色だけではなく文化観光を楽しむ場所として楽しみ方が広がっていってくれると良いですね。
個人的には引き続き正しい文化的背景を調査していきたいと思います。
今回は自然科学的側面と歴史文化的側面から御嶽昇仙峡の成り立ちについて紹介しました。
観光地はどうしても宣伝を誇張しがちなところがありますので、今回の記事が御嶽昇仙峡の文化観光を楽しむ際の一助になれば幸いです。