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【博物館】シーボルトが持ち帰った「ホシクソ」

江戸時代の鎖国期、唯一の海外との交流は長崎の出島で行われていました。
日本史を学習した際、オランダ商館付きの医師として来日したシーボルトの名前を覚えた方も多いのではないでしょうか。

シーボルト肖像
(Wikipedia)

今回はシーボルトが伝えたヨーロッパの博物学と日本の博物館誕生の関係について、そしてシーボルトが日本から持ち帰った「ホシクソ」について紹介します。


蘭学と日本の博物学

シーボルトは医師として1823年に来日し、ヨーロッパの科学(蘭学)を日本に伝えた人物だと言われています。
例えば、私たちヒトをHomo属sapiens種(ホモ・サピエンス)と呼ぶ二名法を日本に広めたのはシーボルトだと言われています。
このようなヨーロッパ科学は博物学と呼ばれていました。

シーボルトはこのような博物学を日本に持ち込み、たくさんの弟子に博物学を享受しましたが、その一人に伊藤圭介という人がいます。
伊藤圭介は日本で最初の理学博士となった東大教授で、ヨーロッパの分類学に基づいて日本の植物を体系化しました。
「おしべ」「めしべ」「花粉」といった言葉を作ったのも伊藤圭介です

伊藤圭介

そして伊藤圭介の助手を務めたのが「日本の博物館の父」と呼ばれる田中芳男です。
伊藤圭介の影響を受けた田中芳男は、東大を経て文部省博物局にて東京国立博物館や上野動物園の設立に携わりました。

東京国立博物館は1872年(明治5年)3月10日に湯島聖堂大成殿で開催された湯島聖堂博覧会を博物館の創立としています。

「元卜昌平阪聖堂ニ於テ博覧会図」昇斎一景 作
(Wikipedia)

この時の展示品は第1~5室に分けて展示されました。

  • 第一室:天皇家にゆかりの物品(古銭や古鏡、平城京から出土 した鉄瓶や古瓦、また、天皇即位の正服など)

  • 第二室:古兵器、茶器、楽器(加藤清正の槍、豊臣秀吉の面、千利休の杓子など、歴史上の人物の所持品も多く展示)

  • 第三室:国内の産物(各地の染物、陶器、漆器、工芸品など)

  • 第四室:自然標本(主に動物・昆虫標本、骨など)

  • 第五室:舶来品(西欧諸国から輸入された金銀製品、活版や紡績の機械、時計など)

時代的にはシーボルトから離れてしまいましたが、今の東京国立博物館にはない自然標本はシーボルトによって伝えられた博物学を日本人が解釈して最初に展示した博覧会と言えるでしょう。

シーボルト事件

定かではありませんが、シーボルトは医師としてだけではなく、スパイとして来日したという説があります。
1828年9月にオランダへ帰国する直前、所持品の中に国外に持ち出すことが禁止されていた江戸城や大阪城の図面、伊能忠敬による日本地図「大日本沿海輿地全図」や、間宮林蔵による樺太の測量図などが見つかっています。

間宮林蔵による樺太の測量図
(Wikipedia)

特に、積極的なアジア進出を計っていた国々にとって、樺太(サハリン)が大陸(シベリア)と陸続きかどうか、つまり船舶が通れるかどうかを知ることが重要だったと考えられています。
樺太が島であることを確認したのは探検家の間宮林蔵で、樺太と大陸の間の海峡は「間宮海峡」という世界地図で唯一日本人の名前がついた海峡として知られています。

この「間宮海峡」を命名したのがシーボルトで、シーボルトの世界地図によって間宮海峡は世界に知れ渡ることになりました。
シーボルトは樺太の植物標本にも関心を抱き間宮に書簡を送りましたが、間宮は外国人との私的な物品の贈答は国禁に触れると考え、書簡を開封せず上司に提出しました。
これによりシーボルト事件が発覚したと考えられています。

その後、シーボルトは国外追放となりオランダに帰国しますが、日本で収集した民族学的コレクション5,000点以上のほか、動物標本約7,000点、植物標本約14,000点を持ち帰りました。
これらの標本を基にして、『日本動物誌(Fauna Japonica)』、『日本植物誌(Flora Japonica)』、『日本(Japan…)』のシーボルトの3大著作が作られました。
このように、生物学分野での貢献が大きく知られています。

シーボルトの鉱物標本

シーボルトが日本に広めた二名法ですが、この二名法は1753年にカール・フォン・リンネが書いた『Species Plantarum(植物種誌)』によって体系づけられました。
リンネは自然物を植物界・動物界・鉱物界の三界に分類し、植物界を「綱」・「目」・「属」・「種(および変種)」の4つの階級を用いて組織化し、二名法を体系づけました。

シーボルトが植物・動物に関心を持っていたことは紹介してきましたが、同様に鉱物についても関心を持っていました。
一方で多忙であることや知識不足から自分自身で鉱物標本を収集せず、助手である薬剤師のハインリヒ・ビュルガーに任せることになりました。

しかしビュルガー自身は出島に拘束されていたため、標本収集は日本人の弟子に指示して行う必要がありました。
日本人の弟子は鉱物学の知識が不十分であったため、鉱物収集は体系的なものにはなりませんでした。
この時収集された鉱物コレクションのなかに「ホシクソ」のラベルが張られた黒曜石がありました。

シーボルト・コレクションの黒曜石に添付されていた付箋類
(矢島ほか2024)

以前の記事でも紹介しましたが、長野県長和町には縄文時代に黒曜石を採掘した「星糞峠 黒曜石原産地遺跡」という国指定の史跡があります。

シーボルトの持ち帰った「ホシクソ」がこの長野県の星糞峠の黒曜石だったのか、長和町教育委員会・明治大学黒耀石研究センターのグループが2022 年11 月と2023 年8 月に蛍光X線を持ち込んで原産地推定を行いました。
私は現地には赴きませんでしたが、現地で測定したデータをメールで受け取り、原産地推定のための解析プログラムが確認を行いました。
この成果は可搬型の蛍光X線分析装置のメリットを生かした国際プログラムと言えるでしょう。

その結果、一部に不明なものが残りましたが、北海道白滝・新潟県佐渡・東京都神津島長野県和田鷹山・長野県諏訪・島根県隠岐・佐賀県嬉野の各産地の黒曜石が収集されていることがわかりました。
そして「ホシクソ」の黒曜石は星糞峠のある和田鷹山産の黒曜石であることが確認されました。

北海道産の黒曜石が多く集められており、理由はわかりませんが白滝(十勝)の黒曜石に樺太のラベルが付けられています。
もしかしたらシーボルトが樺太の情報を集めていたことと関連があるかもしれませんね。


今回は少しだけ関わらせていただいたシーボルトの「ホシクソ」黒曜石、そして日本の博物館誕生について紹介しました。
これからも意外なところにある石の話題を紹介していきます。

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金井拓人  // 石文化研究者
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