勉強する意味
勉強する意義というものは各人異なるものだ。同じ人間でもその年齢によって異なる。高校生時代の僕はせいぜい大学に合格するためのものと思っていた。
大学生になった今も昔には遠く及ばないが勉強はしている。しかし、これがなんのためかと問われれば答えに窮する。試験前の勉強は、単位を回収してあわよくばGPAを高く保つこと。しかし、試験前以外に勉強するのは何のためだろうか。就職、課外活動、果ては名誉・・・枚挙に暇がないが、概観するとやはり将来への実利を求めて勉強しているように感じる。かくも我々は計算高い嫌味な存在なのである。
なぜこんなことを言い出したかといえば、必死こいて勉強している自分の姿が俄かに滑稽なものに思えたからだ。まるで冬に備えてせっせと働くアリのようだなって。
しかし、本当に勉強の動機が実利の追求からきているのだろうか?内省していくうちに気が付いた。違うのではなかろうか?必ずしも勉強している自分は将来への投資として勉強しているわけじゃない。では、何のためだろう?自分を観察して気が付いたのは「それが楽しいから」である。確かにそこを追求していれば社会からの賞賛や報酬が得られるかもしれない。しかし、「楽しい」っていう気持ちには勝るまい。
思い返せば、高校生の時に数学の問題と格闘しているときには○○大学に入りたいなんて考えなかった。今も語学を勉強するのは、新しい世界が開けていくようで楽しいからである。古代ギリシアでは勉強こそが最大の楽しみだったという。くれぐれも勉強を実利のためとはき違えることなく勉強と向き合ってみたいものである。
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