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「欲しいくせに欲しくない」と言う病

20代後半に差し掛かると、もう大事なものなんてほとんど失っている。無条件にやさしくしてもらえる季節はとっくに過ぎている。あたたかさみたいなものがないと、越せないほど寒くなるのに手がかりさえなかったりする。

振り返ると、原理原則という話が受け入れられなくて、大失敗してきたからに思う。仕事や夢や恋愛や生活。すべてに原理原則がある。でも受け入れるのってムズイ。

社会に生きるなら挨拶は明るくしたほうがいいし、服装は清潔感があったほうがいいし、野菜は食べたほうがいいし、睡眠はとったほうがいい。

これが仕事になると、それぞれの仕事においての原理原則がある。
レコーディングならバスドラとベースとボーカルはセンターで鳴らすのが原理原則だし、リズムやピッチは合っていたほうがいい。

文章なら同じ単語を連発して書かないほうがいい。
たとえば
【すごい速さの列車がすごい人数を乗せている。停まったと思いきやすごく人が降りてきた】は読みづらい。
【目もくらむほどの速さの列車がすごい人数を乗せている。停まったと思いきや、大量の人が降りてきた】のほうが読みやすい。

僕も原理原則を無視したことが何度かあるが、痛い目にあってきた。逆に原理原則を守ったときの恩恵というのは今も生きているように思う。

たぶんそれらは「古来から何千何万と繰り返されてきた成功確率の高かったやり方」だ。ある程度の再現性があり、体系化されている。

もちろんその原則から外れて生きても差し支えはない。人生なんてやりたいようにやればいい。我流を貫いて捕まるわけでもないし、100%失敗するわけでもない。

じゃあ何で原理原則が大事なのだろう。

たぶん「原則が大事!」と気付いたころには戻れないからかもしれない。もしくは戻ろうとすると、めちゃくちゃコストがかかったりする(体力、時間、金銭、切り捨てるものなど)

だから「大してこだわりがないものならば、多少の自我や心の抵抗なんてシカトして原則に従ったほうがいいんじゃない?」という微妙に冷めた話なのだ。『趣味レベルでテキトーにやったほうが成果が出る現象』の要因はここにあるのかもしれない。

自分自身、後悔がそれなりに多い人生になってしまった。取り返すためにいろんなことをしているけれど、だけど生きていると後悔すらさせてもらえないことがある。敗北にも気が付かないというのはなかなかエグい。

この果てに「じつは欲しいくせに欲しくないとか意地を張る」という側面の人格が現れる。お金が必要なのに「そんなに要らない」と言ったり、モテたいのに「別に」と言ったり、売れたいのに「やりたいことができたらいい」と言ったり。

こういう落とし所、妥協みたいな呼吸法はあるのだが、言葉にしているうちに自らの本心すら見えなくなる。

【20代後半に差し掛かると、もう大事なものなんてほとんど失っている。無条件にやさしくしてもらえる季節はとっくに過ぎている。あたたかさみたいなものがないと、越せないほど寒くなるのに手がかりさえなかったりする】と冒頭に書いた。

ここを突破するのは原理原則に今一度、頭を下げる素直さなのだとも思う。

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takuro(juJoe)
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