音声の特権
最近考えていることについて少し書いてみる。
これは完全に批評家の黒嵜想さんのボイスメモの影響だが、音そして声についての特別なポジションについて考えることがある。
アニメキャラやバーチャルユーチューバーについて絵に声が乗ることでなぜ存在感が生まれそれを信じることができるのか、なぜ振り込め詐欺の電話口の声を通して自分の親類の存在を信じその指示に従ってしまうのか。
土曜日の夜に花火の音が聞こえた。近くで花火大会がやっていたらしい。
花火とは何だろうか。火薬を打ち上げて爆発している現象になぜ人は美しさや感動を感じるのだろうか。視覚的な光と聴覚的な音に人は何を見出しているのだろうか。この場合存在を見出すというよりもむしろその一瞬の消失を感じ取っているといってもいいかもしれない。
映像や光に音(声)が乗ること(アニメや花火)、または音声単体(振り込め詐欺)にでも人はその先に何らかの存在やその消失を感じ取り、感情を抱くことができる。これはとても不思議なことだと思う。
なぜ音声というものが他の五感と異なり人に存在を感じさせることができるのか。最初に思いついた仮説はこうだった。生まれる段階で聴覚が一番最初に発達するのではないか。それにより人は音を通して自分の存在を知覚しているため、聴覚は他の感覚に対して何らかのプライオリティを有しているのではないか。
しかし、少し調べてみると五感の発達は口の周りの触覚が最初で次いで味覚、聴覚・視覚が同じくらいで最後に嗅覚が発達するらしい。発達の順番による仮説は崩れさった訳だが、ただ死に際して意識がなくなる時に一番最後に残る感覚は聴覚らしい。これは聴覚が運動機能の関与がなくともその役割を果たせる感覚であり、脳血流が保たれていれば、随意的な運動機能をほぼ用いずに、機械的に容易に完遂される感覚機能であるからでらしい。
このことから少なくとも聴覚は脳に一番近い単純な器官であるといえるだろう。それが存在の知覚とどう関連しているかはまだよく分からない。
最近読んでいるベルクソンの持続の概念についても関連して考えることがある。持続の概念の例えで良く出てくるのがメロディーの例えである。異質的で有機的な連続した流れとして持続は記述されていく。ここでも音が知覚の入り口として有効に働いている。
こうしてみると光(視覚)と音(聴覚)という波の振動を前提としたものが流れ≒存在の認識に重要な役割を担っているように思われる。他の五感と比べて視覚と聴覚がこの振動を知覚することができる感覚といえる。他は化学的・物理的な刺激を受け取る感覚である。運動機能(瞼の開閉)の有無の差で聴覚の方が視覚よりも若干優勢に働くのではないだろうか。
これが特権的と言えるかは分からない。
波の振動について考えるとこの振動はベルクソンの持続の概念と親和性が高いように思われる。絶えず変化し続ける波の振動は持続する生命の存在の知覚へと繋がるのではないか。
話がまとまらなくなってきたので最後になんとなくまとめておく。
存在の知覚とは振動(還元すればそれは分子・原子、そして電子の振動だろう)を感じることである。その知覚器官として特に聴覚が視覚よりも若干優先して機能するのではないだろうか。(それを特権というかは別にして)
それはベルクソン風に言えば持続の直観であり、存在の通奏低音を聴くということではないだろうか。
今回のヘッダ画像はカオリアートワークスさんのものを使わせていただきました。ありがとうございます。