誰も答えてくれない人生の意味を求めた先に-楽観的虚無主義とカミュ-
1.はじめに
私は最近、ずっと放心状態であるという気がしています。目の前がいつもぼやけて見えて、とても毎日を大事に過ごしているという風に言えない状況です。一種の「虚無」であるともいえるでしょう。
こうなった要因はおおかた見当がつきます。一番大きな要因は”就活”です。自己分析に自己分析を重ねても自分が何をしたいか、そして何が向いているかなんてわからない。一方で、エントリーシートを書いたり面接の段階になると、自分が今まで何を成し遂げてきたか、何者か、ということを常に問われます。それがあいまいなまま臨み、落ちて勝手にしょんぼりする。というようなことが続いていました。
就活に至る前の大学生活にも虚無化する多くの原因が見え隠れしています。私の在籍する学部では、2、3年の時ぐらいから周りがあわただしく行動し始めます。積極的に外部との交流を求め、長期のインターンを始めたり、イベントを開催する。あるいは自分で事業の構想を練り、事業を始めてみる、起業するというような同級生が多くいたからです。
私はそのような同級生が非常にうらやましく見えました。しかし、自分自身は大学に入ってからというもの興味を持てる対象というのがなかなかみつからなく、せっかくの大学生なのだから!という大きすぎる理想を徐々に抱えきれなくなっていきます。
そして、私から見ればまぶしすぎる生活を送る友人に対して劣等感を感じるようになり、他者とのコミュニケーション自体も断つことになります。私は総じて空っぽな人間になっていました。そのあとから私が感じていたことは至ってシンプルです。
「俺ってなんのために生きてるんだろう」
そりゃそうなります。こうやって今の今までぼやぼやと生きてきたのですが、先日、ある動画を発見しました。それが以下のものです。
2.楽観的虚無主義を読み解く
Kurzgesagtというクリエイターの「楽観的虚無主義」という動画です。英語版においては2017年の7月26日に公開されており、そのあとから公開された日本語版は現時点で329,854 回、元の英語版に関しては17,681,495 回も再生されており(2024/12/27時点)、コメント欄では多くの共感を呼んでいます。
はっきり申し上げて、めっちゃ刺さりました。ざっくりとした内容としては、
我々は、誕生して以来の年月の中で宇宙から見ればちっぽけであるということを知ったが、その宇宙のすべてを知ることはできない。それと同時に我々がもつ時間というものは有限である。その先には必ず死が待っている。その死の先も我々は知らない。そのような恐怖に直面している。
そのような恐怖に楽観的虚無で立ち向かおう。私たちの人生は一度きりであり、様々なことを選択し、実現できる。やることはたくさんある。
というような感じです。この楽観的虚無主義-optimistic nihilism-という単語はちゃんとした哲学用語ではなく、投稿者の造語です。実存主義の系譜から枝分かれしたような発想ですが、ニーチェの考えたようなニヒリズムとは微妙に文脈的に異なります。しかしながら、能動的ニヒリズムとも類似しているような不思議な言葉です。それでも楽観的虚無主義は私たちが日々の考えを深めるためには大きなヒントになると私は考えます。
確かに、私たち人類はことあるごとに自信を失い、虚無や恐怖に陥ってきました。フロイトは、特に3つの出来事が与えた衝撃について述べています。
1つ目は「天動説」です。結果から言えば、地球は宇宙の中心にある天体ではなく、特別な存在ではなくなったのです。
ダーウィンの「進化論」に関してもそうです。これによって人類が神によって創造された特別な存在ではなく、ただ、進化のプロセスにそって生まれてきたものだということが分かってしまった。
最後の1つはフロイトの「無意識の発見」です。人間はすべてを自分自身で考え、行動しているわけではなく、無意識というものが介在していたのです。
このような言説からもわかるように、私たち人類は月日が流れる中で、いわば自分自身を傷つけ、虚無の方向へいざなってきたともいえるのです。
今日、このような自信を失わせられるような出来事の代表例を挙げるとしたら、「生成AIの普及」だと思います。プロンプトを入力すれば、求める答えや画像を瞬時に生成してくれる便利な存在です。ビジネスや日常生活におけるよきパートナーとなりましたが、我々の自信という側面で見れば、違うように見えてくるかもしれません。
X(旧Twitter)で、複数件似たような投稿を見ました。その要旨はこんな感じです。
AIが開発されれば、日々の労働など面倒なことをやってくれて、自分たちは絵とかを描いて優雅に暮らせると思っていた。
でも、現実は自分たちはいまだ労働をし、AIのほうが上手な絵を描いていた。
非常に鋭い感想を見ました。生成AIはこれほどまでの完成度でありながら、いまだ発展途上であるという脅威的な技術であることは言うまでもありません。今後、AIが発展することで訪れる、私たちのアイデンティティや自己愛の崩壊への危機を考えなければならないと言えるでしょう。
そして、私たちは自分たちの現在の着地点を知ったうえで、この問いに戻ってくるのではないでしょうか。
なんのために生きているんだろう
ちょうど今、私が血反吐を吐く思いをしながら追い求めている、生きる意味についてです。
「楽観的虚無主義」の動画内においては、虚無がもたらす恐怖に対して、逆にポジティブにとらえなおし、一度きりの人生というものの可能性を説いています。さらに、他者への貢献ができればなおいいとしています。
そして私たちがちっぽけな存在であるからこそ、私たちだけがもつ感覚によって未知の領域を探求する可能性を秘めている存在でもあり、すべてが私たち自身の選択次第だと動画は締めくくられています。
生きる意味を考える際に、この「楽観的虚無主義」というものが特徴的だと思われるのは、虚無というものを現代的に真正面にとらえ、私たちちっぽけな存在だというふうに認識しながらも、それを逆に利用し、等身大の解釈をしてあらゆる可能性や選択肢を提案することです。
また、宇宙や時間という広大な世界から等身大の、身近な課題や可能性を混ぜ込んで思考を構築のも特徴だと言えます。
どうせ死ぬなら、どうせ何もないなら、どうせちっこい存在なのだから、というのを地で行きポジティブな帰結になっていることが最大のポイントです。この宇宙に目的がないなら、あなたが示せばいいというのはなんて力強いメッセージでしょう。
私はこの動画を見た後、しばらく余韻に浸っていました。空を見上げて自分が小さな存在であると認識したのに、なぜか勇気のようなものが湧き出た気がしたのです。小さなろうそくの火のようでしたが、それでも私には十分でした。
私はこの考え方に対して、とてつもない新鮮さを感じましたが、これと共通点を持つ思想に行きついたのではないかという人物をのちに知りました。
それこそが、フランスの伝説的な作家「アルベール・カミュ」でした。
3.カミュの言う不条理
カミュは<異邦人>や<ペスト>といった作品で知られています。カミュは実存主義の旗手であるサルトルと交友がありましたが、壮絶な論争の末に絶交しました。
以下の動画では彼の人生と思想が端的にまとめられています。(日本語字幕ありました)
カミュを象徴する言葉としてよく出てくるのが「不条理」です。彼は数々の著作の中で不条理とは何か、不条理とどう向き合うかについて突き詰めてきました。しかしながら不条理一辺倒だったというわけではありません。彼は生涯で不条理・反抗・愛という3つのテーマに取り組みました。
では、彼の言う不条理とは具体的にどのようなことを指しているのでしょうか。
私たちがなにかつらい目にあったとき、なぜなのかと問います。あるいは人生の意味を疑問に思い問いかけます。しかし、世界は、宇宙は、なにも答えてくれない。しかし私たちは問いかけ続ける。世界も宇宙も着信拒否してるのに。
その断絶、そのズレこそがばかばかしいこと、不条理です。
不条理は、人間の理性の限界というものを示すようなものです。理性と世界の冷たい不合理性のぶつかり合いの果てが不条理であり、カミュは不条理についてこう形容しています。「神のない罪」だと。
このような不条理に対して私たちはまずどうとらえればいいのでしょうか。カミュはこのばかばかしさを受け入れるべきだとしています。つまり私たちはこの不条理を見つめることこそが重要だと言えます。
それどころか、人生の意味についてもないことを受け入れることが大切としているのです。意義がなければないだけいっそう生きられるとまで言い切っています。カミュにとって生きるとは「不条理を生かす」ことなのです。
それを踏まえてカミュは「反抗」というトピックへ段階を進ませています。反抗とは、暴力的な社会革命ではなく、私たちが小さな存在だと認識したうえで、不条理をただただ飲み込むわけではなく、積極的に働きかけることだと言います。そして個人の苦悩であった不条理は他者との連帯のきっかけになっていくのです。
このようにカミュは人生と、不条理にどう向き合うかについてじっくりと時間をかけて突き詰めました。しかし、1960年に交通事故により亡くなり、その探求は道半ばで終わってしまうのです。
4.2つの思想をくらべてみる
楽観的虚無主義とカミュの思想において共通すること、それはまず、第一段階においてマイナスの要素を認知するプロセスを挟み込んでいることだと言えるでしょう。楽観的虚無主義では宇宙や時間を含めた途方もない領域から来る虚無、そして恐怖を認知し、カミュの思想は決してかみ合うことのない人間の理性と世界の不合理性から来る不条理と相対しています。
そして何よりも、両者はそれぞれの問題について根本的な解決というのを目指していません。あくまでも自分自身の選択にゆだねている部分があったり、いかに己が小さい存在かを認識して対処を考えています。
根本的な解決を目的にしていないといっても、両思想は積極的なアプローチを促しているという方向性は似ています。カミュの思想から言えば、こういう点から自殺というものの到達点に懐疑的なのでしょう。あくまで反抗が先に来るからです。
2つの思想の間には異なっている点もあります。大きな点で言えば、人生の意味に関してです。楽観的虚無主義においては一度きりしかない人生において自らの意志によって意味そのものを見つけることが推奨され、その選択肢が示されています。主に未知の探求という部分においてです。
しかしながら、カミュは人生の意味を追い求めないという方向に舵を切り、それも受容のプロセスに含まれています。
その前提と理性の立ち位置も違います。カミュの思想において、不条理というのは理性で割り切れないものだと言ってきましたが、楽観的虚無主義において、我々が虚無に陥っている原因というのは科学の進歩によって私たちがなんでもない小さな存在に成り下がってしまったからだというような示唆がなされているように感じました。
この科学の発展というのも人間の理性を最大限信じて造られてきた進歩至上の考え方によるものだと思います。そうなれば、現代に映されるのは、ただ、自らの理性によって人生の意味を失いつつある私たちの姿ではないでしょうか。
ここまで極端な言い方はしたくありませんが、私たちは自らの理性によって首を絞めているとも言えないでしょうか。ニーチェの「神の死」が急速に発展した形であるように思います。神は死んだと大々的に言われた後であり、AIの発展が私たちのアイデンティティという概念の沽券にかかわる現代は、「父なき子の死」の時代だと感じます。
しかしながら、その理性が関与した2つの危機である虚無と不条理に対しての対処の仕方にはどこか共通する部分があると思えます。
それは、理性にも限界があり、小さく、有限の存在であると自覚しながらも、それでも自らの使えるだけの知力や感覚を用いて虚無や不条理に立ち向かう姿勢です。
楽観的虚無主義やカミュの思想がどこか明るく思える訳は、その姿勢にあるのではないでしょうか。
5.いまだ出ない結論
独り言はこれぐらいにして、私が今回取り上げた2つの思想から率直に申し上げたいと思います。それは「生き続けなければならない」ということです。なんで生きてるんだろうという問いに対しては正直答えにはなっていません。
私たちは、人生に意味などないと早期に決着をつけることも、人生は虚無だ、不条理だと簡単に受け入れてしまうことも許されていない存在なのではないかと、両者を見比べて感じるようになりました。
だからといって単に可能性や希望を残したまま生きていくことも道筋が違うと思われます。ただ眼前にある世界の冷淡さに触れることから選択や反抗は始まるのだという確信を得たのが今回の収穫です。
生きるということに関して、言えばまず楽観的虚無主義の動画内ではこのように語られています。
私たちの周りを包む虚無への対処療法は、探求や経験によるものだと解釈します。私はこの点において非常に重要なのは好奇心を持てるかどうかだと思うのです。
カミュは人生を終わらせること、つまり自殺についてこのようにまとめています。
と。つまり自殺というものには明確に否だと言い切って、その性質が反抗とは別であるというのを強調したのです。
カミュにとって自殺とは、不条理というものを完全に受け入れたからこそ発生してしまうものだというのです。自殺は不条理の解決策にはならないのです。
結局、私たちが真に生きる目的を見つけるためには、小さき存在であることを認め、それでも小さな選択と反抗、つまり積極的な行動を地道に心がけていくしかないということなのでしょうか?
ここまで書いてみて、腑に落ちた部分もありましたが、それでも心は完全に何かを見つけ出したという風には言えない状況です。
私たちのこれからの経験にゆだねるというというような結びになってしまったことを心苦しくも感じます。ただ、私たちがこの世界を見つめるほかないというのは紛れもない事実でしょう。
生きる意味というものを希求する上では、ここからさらに足を進めることが必要なのでしょう。それこそが他者とのかかわりや連帯を考えることであり、カミュが第三のテーマとして取り組もうとした愛をどうとらえるかということなのかもしれません。