教養ってそんなものなのか?
第1章 教養としての○○
最近というか、常々思っていることがある。それは「教養」に関しての問題である。
書店にまあまあな頻度で行くのだが、ビジネス書とか新書の売り場に差し掛かると、
「教養としての○○」
というような感じの、タイトルに「教養」という言葉が付く書籍が結構多いことに気づいた。○○に入る言葉は多岐にわたる。
今回ここではその一つ一つに難癖をつけたいわけではない。しかしながら僕はそこに猛烈な違和感を感じるのだ。
たぶんそのタイトル付けのフォーマットが使われるのは何らかの流れがあってのことだろう。そして出版社としてはその流れにのっとることで売れるということを分かっている上での「教養」タイトルなんだろう。
ここからは偏見も混じっているけれども、そういうのにたいてい飛びつくのは中堅に差し掛かったくらいのビジネスパーソン、ビジパだと思う。
そして流れができるくらい売れるということは、世間は「教養」というものを欲していることになる。
さらに言えば、ここでのニーズは「本を一冊読んで手っ取り早く身につく教養」というヤツだ。
教養タイトル本を読んでそういう「キョーヨー」を身に着けたとして彼らはどうするのだろうか。本を読まないよりはマシはマシではあるが。会話のネタにでもするのであろうか。
大学生の僕でも、会話の話題と言えば人間関係の噂話や悩みをぶちまけるというような所感であるのだが、ビジネスパーソンはこういう本を読むくらいだからさぞ高尚な話を飲みの場でもしているのだろう。
もう一度言うが、私はこの教養タイトル一つ一つに難癖をつけたいわけではない。そしてこの主張を極端に「反知性的」的なものに結び付けたいわけでもない。
僕がここで違和感を感じているのは、この狂ったほどに「教養」を欲している世間に対してだ。
第2章 タイパを大切にするということ
少し前に、ストリーミングサービスで映画を飛ばし飛ばしで見る人だったり、いわゆる「ファスト映画」が非常に問題視されたことがあった。
こういった問題と、この教養ブームというのは多少なりとも関係性があるのではないかと思うのだ。
ここでキーワードとなるのは、最近降ってわいてきたような「タイパ」という代物だ。コスパと並んで、パフォーマンス二大巨頭ともいうべき言葉だが、しっかり言うと「タイムパフォーマンス」のことだ。漢字で言えば「時間対効果」で、その時間を使ってどれだけの満足度を得られたかを表す。
情報過多な現代社会において、時間の使い方は言うまでもなく重要な問題だ。その有限なリソースを何に使うかは頭を悩ませることであろう。
そして、インプットをする時間さえもリソースのうちに含まれている。現在ではYouTubeが検索エンジンであるといわれるほど、人々は動画でそれを済ませている場合が多い。無論その他のウェブメディアもであるが。
自分自身も、胸に手を当てて考えてみれば、最近二コラ・テスラに関してのゆっくり解説を見たものだ。
とはいえ、文字メディアも死んだわけではない。こういう需要があることを分かって教養タイトル本が雪崩のように発売されているのは想像がたやすい。
第3章 広く浅い世界と狭く深い世界
こういった、いわば現代人のインプットや教養に関しての考え方だが、本当にそれが正しいのであろうか。
こういう状況をあえて表すのならば、確かに現代は「広く浅く」というのが表に出てきているのかもしれない。興味関心が薄れてきたらまた別のジャンルに、ということの繰り返しによってさまざまな情報を集める手法だ。
僕もこういうのが発展したミーハーの権化みたいな人間であるので自己矛盾が生じかけているのだが。どうにかそこは凝視しないでほしい。
そういう我々は「知識遊牧民」ともいえるのかもしれない。
確かに多分野に触れることは大事である。しかしながら一つのことを突き詰める。専門を持つということのロマンを忘れてはしないだろうか。それは趣味でも研究でも、あるいは趣味でしている研究でもだ。何事も10年やればどうのこうのみたいなことを聞いたことがあるが、そういう体力を身に着けるべきなのではないか。
教養をのどから手が出るほど欲するのには、いろいろな理由が個人個人にあるだろう。
例えば、とっさにその話題が出たときに答えを出せる力が欲しいから。初めてその領域を経験しても恥をかかないように。シンプルに周りに合わせたいから。人生100年時代を見越してリタイア後に打ち込めるものを探している。
等々。
結局共同体内において、何者かになりたいという必死な思いが、多様な知識を求めて奔走することにつながっているのであろう。
何者かになりたいという気持ちは、個人的には思春期だけのものでなく、生涯にわたって続いていくものだと思っている。我々が過ごしていく全体的な時間は長くなり、様々な立場に変容していって生きていくことは当たり前になりつつある。いわば、人生を複数持つ状態なのだ。誰かの受け売りなんだけどね。
そこにおいて我々が必要なことは安易にダブルスタンダード的なことを目指すのではなく、ちゃんと土台を作ることなのではないだろうか。
何か一つ極めることがかっこいい大人につながるんじゃないか。そう、没個性的な大学生は思っている。
第4章 その他もろもろ、さいごに
ここまで「一」の論を続けてきたわけだが、教養タイトルがあふれたのにはもう一つのちょっとだけ違った側面があるのではないかと考える。
なんて言ったらいいかわからないが、ドサブカルチャーに触れてきたことで違った高尚な自分を作ろうとしているのではないかということ。イギリスで労働階級が憧れによって紅茶を飲み始めたようなそういう感じ方をしたりしなかったりする。
そして、そういう実像を作ろうとしている大人と、何とか業界をつなげていこうというところの思惑が合致したから教養として昇華したのではないかなんておもったりする。
教養としてちょっと学問化した弊害もあるとは思う。趣味の領域を教養と銘打ったとして、そこに深い理論やビジネスとのつながりを求めているのかもしれないが、そこに無理やりな共通点を見出すことは、いいことと悪いことがそれぞれあると思う。その領域の自由度がなくなってしまう可能性だってある。
ここに関しては完全な憶測なので真に受けないでほしい。
ここまで、異常な教養欲しさはどうなんだという話をしてきたが、それはもちろん教養を持つことを否定したい意味があるわけではない。
もちろん教養というか、知らないといけない情報は世の中にたくさんあるし、現代では個人個人が生きていくための情報としてちゃんとがっつり調べないといけない大変な時代だなと感じる。特に金融や法律関係。
でも、趣味の領域において、たくさんの分野の多様な情報に触れすぎて頭がパンクすることは本末転倒だと思う。そこには警鐘を鳴らしておきたい。
そして、読書も程よくしていただきたいし、いろんなジャンルの本もぜひ読んでいただきたい。教養タイトルの本にも参考文献みたいなリストがついていることもあると思うから、そこから追っていくのもいいかもしれない。