少女とめくらぶどう
宮沢賢治の「マリヴロンと少女」を読んだ。おそらく数年前に一度、読んではいたがさらっと流し読みをしてしまっていて、この作品についてあまり覚えていなかった。
私は朗読が好きで、たまにいろんなものを手に取っては、そこに書かれている文章を声に出す。なんとなく、そんな気分になって、宮沢賢治の文庫本を手に取った。そして、いつも「よだかの星」を読むことが多いのだけれど、今回は別の作品にしてみようと、書き出しが気になった「マリヴロンと少女」を読んでみた。
マリヴロンも少女も、人間なのに、人間ではないような不思議な感じがした。
「よだかの星」や「シグナルとシグナレス」を読んでいるときのような、人ではないものにいのちがやどっているような、そんな文章に思えた。だから、マリヴロンという名の虹なのかなと考えた。
調べてみたら、その感覚は当たっていたみたいだ。元々、「めくらぶどうと虹」という作品があり、それを書き直し、改題したものが「マリヴロンと少女」らしい。気になって、青空文庫で「めくらぶどうと虹」も読んでみた。
どこか悲しさを抱えた存在が憧れる、焦がれるものにせめてさいごにと縋り、自らのいのちをそこに重ねる。尊敬をうけたものは、あなた自身もまた尊敬される存在なのだと説く。
それは綺麗で、憂いを帯びた言葉のように思えた。
あのあと、残された少女とめくらぶどうはその存在を感じて、これからを生きていくのだろう。
あたたかくて、やさしくて、かなしくて、いとおしい。そんな2篇でした。
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