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昨日の日記と読んだ本

近頃は、考え事で1日が終わってしまうことがある。家で出来ることをちょちょいとやり、その他の時間が無為に消える。そのゆとりある時間を読書に当てる絶好の機会なんだが、心は奇しくもニュースの話題に奪われる。

日々の充実具合はやはり、流れる情報に触れる時間が長いほど下がる。その情報に触れることで脳が混乱する。もう少しテレビとSNSに関心が向かないようにした方がいい。同じことばっかり流れてて、その微々たる変化に一喜一憂し、自分の思考が後回しになり、考えたいことを考えられなくなる。

そんな日々の中では読書が頭に入らない。集中できない。長いストーリーが頭に入らなくなる。流れる情報ってのは、短いぶつ切りの物が多い。思考が突発的なものになりすぎて、論理的な繋がりを読み解く力が鈍くなる。

今日という日を、失敗した。しかし、毎日集中し続けるのも無理な話なので、まあ良い。

昨日ちょっとだけ読んだ本は、橋爪大三郎さんの『4行でわかる世界の文明』だ。全然進まなかったしめちゃくちゃ流し読みした。まあ以前読んだ事のある本と被ってたからってのもあるが。

前半の話は代表的な思想について書いてあり、唯一神の宗教・ヒンドゥー教・儒教・仏教のそれぞれの性格をめちゃくちゃ簡単に説明していた。それはすべて、人同士が主張し合い、争いが生まれそうな時の対処法で説明された(ただしこの時暴力での解決は前提としない)。

・唯一神の宗教(ユダヤ・キリスト・イスラム)は、争いが起きそうな時は宗教法や法律が解決するという立場を取る。

・ヒンドゥー教では、それぞれの人間の生きている前提が互いに違うことを理解することで、争いが起きないと考えられる。

・儒教では、年功序列などの順番が決まっているため、争いは起きないと考えられる。

・仏教では、真理があるから争いは起こらないとされる。

このように、橋爪さんはめちゃくちゃ簡潔にそれぞれの特徴を表した。削ぎ落としまくると、これだけの言葉でこんな説明出来るようだ。本文では、そう表した上で、もっと丁寧な説明が加えられている。

本書の冒頭で、橋爪さんは「物事を読み解くために、比較するための図式を身につけた方がいい。」というような事を言っていた。つまり、抽象的な知識と具体的な知識で階層を作り、それぞれの分野について、同じ抽象度で、並べて説明できるようになることを勧めている。これが比較というものだ。世の中を理解するというのは、様々なことを並べて眺めることで達成出来る。

抽象的に物事を見るためには、具体的な事に触れる必要がある。それを経ないと抽象化ないし捨象化できないのだ。捨象というのは、抽象が抜き出した本質とすれば、削ぎ落として残った本質のことだ。学んだことを抽象的な知識に圧縮して覚えておくのは便利だし、会話において重要なポイントを掴むのは大切だ。

しかし、それに甘んじるようになると、具体的な事を覚えられなくなると思っていた。これは結構疑問なのだが、人によって覚えやすい抽象度は違うのだろうか?僕は具体的なことを覚えづらい。そもそも、具体的なことにあまり興味が無い。しかし、抽象的に考えるようになると、あれもこれも共通点で括ってしまい、頭の中の彩りが単純になる。

科学者やスポーツ選手など、1度道を深めた人同士が会話をすると、かなり抽象的な会話が成立するし、超具体的なエピソードにも、共感しまくっている場面が多く見られる。こう見ると、具体的なものあってこその抽象的思考なんだと感じる。こんな説明をしている中で僕は、それが誰の対談だったかを言えない程度に、具体的なことを覚えていない。。

多分人性のどのタイミングからでも、ジェネラリストにはなれる。抽象的な比較を繰り返し、博識を手に入れるのは、きっと出来る。だが、ひとつの道を深めた者は、その道でかなり具体的なことまで知っている。なので、その人が他の分野に興味を持った時、経験したことのあるレベルの具体的な部分まで意識が向くだろう。

物事について考える時に僕らは、自分が1番知っている分野で得た「抽象度の表」を使う。そこに照らし合わせて、目の前の物事を分類し比較する。そう思う。そして、そういう風に並べられるようになると良いっていうのが、橋爪さんが言っている事だと思う。

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昨日は書きながら途中で寝た。昨日はただ微妙な時間を過ごして残念だったから、今日はちょっとしっかり動く。やることをリストにして、せめてその半分は終わらせよう。。

タイトルが「昨日の日記と読んだ本」であり、前半が日記だった。改めて読み返すと、なんか抽象的な日記ですな。。いつも同じこと考えてる気分になるのは当然だった。

それでは、おはようございました。

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