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日記1/12(小林秀雄にバタイユ、アメリカ文学に澁澤龍彦を読み漁った日)

今日はいくつか本を読み切った。私はこらえ性がなくて、ついついこちらの本を読み切らないままあちらの本へと行ってしまう癖があって、だから週に一度くらい、こんな風に「読み切り祭り」になる。全部、ラストの方まで行っていたのを今日、たまたまやっつけただけのことだ。皆さんも、そういう日は気持ちがいいでしょう。


小林秀雄「Xへの手紙・私小説論」


新潮文庫だ

この頃ずっと小林秀雄について言及している気がするから、むしろ読み切らなかったことが恥ずかしい。小林秀雄が最初は創作をしていたというのは知らなかった。脳について書く「一つの脳髄」という作品では、ある女中の脳を「駝鳥の卵」のようだと言っていた。
私がたまたま持っている詩集で、杉本秀太郎「駝鳥の卵」というのがある。むりやり小林秀雄の初期の創作だけでこの詩集のモチーフを「脳髄」だとして読みなおすのは無理があろうか。ただ、この「駝鳥の卵」というやつ、なにか魅力的だ。そういえば、単細胞は自活しにくいみたいな話をどこかで読んだ。駝鳥の卵は世界で一番大きな卵だから、めちゃくちゃ大きい単細胞だということになる。面白い。
そのほか、表題を始め重要すぎるものについてはここでは触れられない。長くなる。

あと一言。戦争中の小林秀雄の話はつまらない。早く戦争が終われと思っているのがひしひしわかる。最近小林秀雄の「戦争について」という論集が新に中公文庫で出たらしい。しかし戦争について語る小林は、本人もいうように常識的なことしか言っていない。つまり、小林はモラルを持った文人だ、としか言えない。その間、彼はひそかに「モーツァルト」を準備し、日本古典を漁っていたのだ。小林秀雄の批評ではそういうのが聴きたい。そもそも文芸批評であってすら、「文壇の独身者」を目指すとデビュー作の「様々なる意匠」で言っている人に、専門分野の遠い遠い戦争や政治を語らせて何になるのだろうか。うまくかわされるだけだ。

バタイユ「エロスの涙」


ちくま学術文庫、森本和夫訳

さて、みんな大好きバタイユの最後の作品だ。しかし、この本まず面白すぎるところとして、バタイユ自身が「この本は自分の中でもっともよくてもっとも親しみやすい」って言ってるのに本国フランスで思いっきり発禁を喰らっているところだ。まあ、細かい時代背景、社会拝啓はおいといて、この老獪なる奇才を最後に、思い切り笑い飛ばして送ってやるのも良いと思う。自ら始めた雑誌「ドキュマン」で挑発的な評論ばかり書いて、最後には自分が追い出されてしまったという、スティーブ・ジョブズばりの英雄的な男が、最後こんな風に自分が自分自身の「汚れたパロディ」として現れて私たちにひと笑い贈ってから退場するだなんて、とても素敵じゃないかと思う。

「笑い」の部分が、他のエロティシズム論に比べ多いのもこの本の特徴だ。「笑い」と「死」、「エロティシズム」が結びついていることを明確に言っているのは本はこれくらいのものなんじゃないかと思う。ラスコーの壁画など、原始的な人類に魅せられてきた彼(それはつまり、「どこからが人間なのか?」というもっとも根源的な哲学の問いに突き動かされているように見える)はいつもの悪魔的なモティーフを、「笑い」へと連結させた。
そこにささやかなバタイユのやさしさが透けて見える。バタイユ程、やさしく人間を見つめて、どこまでも壊れゆく人間性に付き合った人はいない。勝手に狂った人が先人に一人いるだけだ。
しかし、まったくその思索と著述の手腕はまったく衰えておらず、「エロティシズム」や「呪われた部分」で参照した量の何倍もの絵画や史料を、これで全部だと言わんばかりにぶちまけてくる。途中、何ページも絵画ばかり見せられるパートがいくつもあった。そしてラスコー、デュオニソス、キリスト教絵画から、シュルレアリスム、いつものサドや供犠まで、これでもかと言わんばかりにかましてくる。最高だ。

トム・ジョーンズ「コールド・スナップ」舞城王太郎訳


河出書房新社。豪華な装丁だ。

この本は近所でやっていた古本市でたまたま見つけた短編集だ。舞城王太郎はジョジョのノベライズで暴れている人くらいにしか前知識がなかったため、面白そうなので求めて読んでみたのだ。
どこまでが舞城で、どこまでがトムか、よくわからないのだが、とかく「声」のリズムが凄すぎる。「こんな小説読んだことない!」久々にそう思った。文体のリズムがおかしい。速すぎるし、喋りすぎだ。「ヘイ、よおベイビー!」みたいなラリッたノリが散見される。太文字、いきなり原文の英文が覗いたりもする。こいつはやばいぜ!ベイビー!と思ってどんどん読み進めていった。
疾走感は作り手側がプッシュしているので、無論感じるのだけれども、それの奥に感じられるのは「迷走感」だ。独特の文体とリズムでどんどん話は進んでいくし、よく車がぶっ飛ばされるし、ボクサーやサーファーがメインの話も多い。だから疾走している感じが凄く出るのだけれども、その話がどこへ向かってゆくのかマジでわからない。急に語り手が死んだり、作者が唐突に話を終わらせたりするのもしょっちゅうだ。その話の腰のスナップ加減は、やっぱりアメリカの街を車でぶっ飛ばす感覚に近いのだろう。
右折、するかと思ったらとにかくこのハイウェイは爆走。あー!っとさっきの角は曲がっとくべきだったけどまあいいか!みたいなノリがずっと続く。
また、これは完全に創作だろうけど、「アフリカ帰りの躁鬱医師が美女と寝る」というのはなぜかお決まりのパターンだ。
こうした「イカレインテリ」のノリは各国様々で、わが国では布団を嗅いだり檸檬を放置したりするけども、アメリカさんでは、トマス・ピンチョンを筆頭にとかく頭が変に回りすぎて言っちゃいけないところまで言っちゃって、とにかく物を氾濫させながら自滅的に爆走する、みたいなのがある。トム・ジョーンズさんもその一人。舞城の作品も読んでみたくなったし、岸本佐知子さんの訳でトム・ジョーンズの第一短編集も読んでみたくもなった!他の短編は・・・原文チャレンジしてみようかな、いつか。

澁澤龍彦「魔法のランプ」


小学館P+D BOOKSだ。

昨日買ったばかりの澁澤龍彦のエッセイ集。まあこれが面白いのは鉄板だ。昨日も澁澤龍彦のファンブログをやったし、これはぱっと終わらせよう。
これは澁澤が色々なところで掲載していたエッセイをまとめたものだから、「思考の紋章学」みたいな一貫性はあまりない。
だからこそ見える彼の手癖や、文章の癖なんかが見えてとても書き手として勉強になるところが多かった。
内容面でやはり白眉なのは一番始めに置いてある「錬金術夜話」だろう。錬金術は化学を生んだだけのオカルトじゃなくて、そもそも物質を暗喩に持つ人間昇華の哲学なんだよと主張する。これはうまいこと物質をエロティシズムや人間の成長のアレゴリーとする自然観を、物質の方から見た学問として錬金術を捉え直した点で、革新的だ。余談だが、ガルシア・マルケスの「百年の孤独」の最初でホセ・アルカディオ・ブエンディアが錬金術に凝って奥さんの金貨を屑金属に変えてしまうエピソードがあるが、こういうことだったのかと変に合点してしまう。

それと、変に文スト的世界観と現実の区別がついていない気持ち悪い文学オタク気取りになってしまうが、三島由紀夫と澁澤龍彦の仲良しなところが見えて良かった。それにしても、二人がふたりっきりであったのは一度きりだと知って意外だった。案外、認め合う二人というのはそんなものかもしれないよな。泉鏡花の「山吹」が好きなことなどで意気投合し合う二人が良かった。しかし、三島はずっと澁澤の味方だったし、澁澤は三島が自決したあとは、ずっとあとがきなどでくよくよ「これを三島が読んでくれたらよかったのに。」とぶつくさ言っている。こうした神々のいちゃつきをこっそり見るのも悪くない。

今日は、本をたくさん読めていい日だった。続け、続け。

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