【表現評論】映画「涼宮ハルヒの消失」を観てから考えたこと
※留意点 2024/12/26追記
いくつか反応をいただけてうれしいのですが、少し補足が必要と思いましたので追記します。
ご理解いただきたいのは以下の二点です。
この記事は『涼宮ハルヒの消失』の考察ではない。シリーズ全体の基礎となる「ハルヒらしさ」とは何かについて考えたものである。もっといえば、「ハルヒらしさ」を題材(前フリ・釣りエサ)として「身体性」について述べることがこの記事の主題であり、『消失』やシリーズについて何かが書かれているのかと期待するのはあまりオススメできない。
「恋愛的な解釈を完全に無視するのはもったいない」というしぃたけさんの指摘は完全に正しい。しかしそのような解釈をこの記事に入れると主題が不明瞭になるためここでは検討対象外とした。
一点目について、『消失』の内容はあくまでハルヒらしさや身体性の検討の材料としてしか用いておらず、ストーリーなどについて検討を加えたつもりはない(ストーリーについて検討しているように読めたとしても、私はそうは考えていなかった)。極端だが、この記事はハルヒに関する記事ではないと言ってもいい。そんなジャンルは存在しないが「元の世界に戻る系」には、この記事の考察が使えるかもしれない。
二点目について、『消失』に限らずハルヒシリーズを恋愛的に解釈するのは広く行われていると思う。そのような偏りに対して、私は脳だの精神だの身体だのという別の偏りをぶつけることを目的とした。読者諸賢は様々な偏りに触れて、考え、また新たな偏った意見を私たちにぶつけてほしい。複数のメジャーな観点について検討を加えた優等生的な(東大生的な?学問的な?)考察は、いしじまの『精読』シリーズなどがすでにあるから、ぜひこれを購入してほしい。私にできることは、ふつうに考えたらおかしいとか着眼点が変だとか逆張りだとか思われるような意見を述べることである。ある意味開き直っているのだが、こういうスタンスをとらなければこのような記事は書けない。
はじめに
2024年12月14日に行われた、涼宮ハルヒの消失の上映会に行ってきた。
この映画を観るのは数年ぶり、二回目だった。この映画(ならびに原作)でよく語られるのは、世界改変後の古泉がハルヒを好いているとか、長門がキョンを好いているとか、キョンハルてえてえとか、恋愛ネタの方面が多いような偏見を私は持っている(こうしてみると本作ではみくるの存在感が薄すぎる)。物語の考察については『涼宮ハルヒの憂鬱』の輪読会記録でも取り上げた、いしじまえいわの作品などに譲りたい。私はハルヒのストーリーについて何かを考えたり書いたりしたいわけではない。いしじまの考察の改訂版がリリースされるようなので、購入リンクも示しておく。
「消失」を観た後で、一緒に観に来てくれたメンバーと食事をとり、ハルヒと関係ない話ばかりしていた。そこで私はたまたま渡辺正峰『脳の意識 機械の意識』という本のことを思い出した。なぜそのタイミングで思い出してしまったのかについては、本当にたまたまだとしかいえない。
「ハルヒ」では、生じた問題を解決して元の世界に戻ることが何度か描かれているが、その中でも象徴的であり、ストーリー上で重要な意味を持つのは以下のふたつではないだろうか。
『涼宮ハルヒの憂鬱』で、ハルヒとキョンだけが閉鎖空間に移動してしまったが、キョンの行動によって元の世界に戻った。
『涼宮ハルヒの消失』で、改変された世界にひとり取り残されたキョンが奮闘し、元の世界に戻った。
これらの過程や結果をおおざっぱに理解すると、キョンはハルヒとSOS団が存在する元の世界を希望し、閉鎖空間や改変された世界を捨ててそちらを取ったということになるだろう。特に「消失」についていえば、元の世界を希望してはいるものの、その過程としては元の世界というよりもハルヒを希望しているようすが随所に表れている。
ここでの私の疑問は、キョンはハルヒの何に取りつかれているのか、ということだ。これについて、ふつうは「消失」の原作や映画での描写からいろいろと考えるのだと思う(考察のテーマとして恋愛ネタが多いようにみえる)が、私は『脳の意識 機械の意識』などの力を借りながらまったく別のことについて考えてみたい。
(※注)ここから先は「消失」の内容とほとんど関係なくなると思われる。タイトル詐欺に近いのだがご了承願いたい。
キョンが望むハルヒらしさはどこに存在するのか
上ではいきなり『脳の意識 機械の意識』を思いついたように書いてしまったが、実際には2024年のシリーズ最新作『涼宮ハルヒの劇場』の古泉のセリフがトリガーになったように思う。
意識とはなんなのかを考えるのは興味深いことではあるが、どうやっても結論は出ないためここでは避ける(『脳の意識 機械の意識』では学術的にどのように調べられてきたのかが説明されているから、これを読むことをオススメする)。この古泉のセリフにある「(人間の)意識」を「ハルヒらしさ」のこととして理解しようとするとどうなるのかを考えてみる。
「消失」の世界改変前後で、ハルヒ自身は何も変わっていない。もちろん世界改変前後で通う学校が変わるなどはあるものの、少なくとも、ハルヒの作中で重要なエピソードである「笹の葉ラプソディ」で描かれた、ハルヒやキョンが中学一年生のときの七夕で織姫と彦星に宛てたメッセージを書いたこと、およびその行動に至ったハルヒの内面(SOS団設立までくすぶっていた気持ち)については維持されていると考えてよいだろう。そうであれば、キョンが単にハルヒに興味があったり恋愛感情を抱いているくらいであれば、世界改変を修復する必要はないと思われる。なぜなら、改変後の世界でもSOS団が結成しそうなところまで進展しており、そのままキョンがハルヒをたきつければハルヒと楽しく過ごすことはできたと想像されるからである。しかしキョンは世界改変を修復する道を選んだ。ならばハルヒの内面以外に、キョンがハルヒ(あるいは元の世界)を求める理由があったのではないかと推測される。
世界改変を修復する直前、『涼宮ハルヒの消失』pp.209-215あたりで、キョンが世界改変を修復する理由について長い独白がある。重要な部分であるがあまりにも長いためすべてを引用することはしないが、最後の重要な部分だけをここに引用しよう。
ここから言えるのは、キョンはハルヒの内面に取りつかれているのかもしれないが、それだけでは十分ではないということだ。原作『憂鬱』のプロローグにもあるように、キョンは「ハルヒの起こす悪夢的な出来事」を、何の特殊能力もない一般人の立場でありながら、宇宙人未来人超能力者が在籍するSOS団とともになんやかんやするということを望んでいるのだ。そのためには、改変後の世界で結成できるSOS団はメンバーが一致しているだけであってキョン(および改変後の世界のハルヒ)の望みには不十分であるから、元の世界に戻る必要があった。だからキョンは緊急脱出プログラムを起動し、世界改変を修復したのだ。
ここにハルヒとキョンの間にある何かを見出すとするならば、緊急脱出プログラムを起動させたことは完全にキョンの独断であるが、それが結果的にはハルヒのためにもなっている、という思いやりのようなものであろうか。改変後の世界でSOS団のメンバーを集めることができたのは、ハルヒの並外れた行動力によるところが大きい。しかし改変後の世界の長門、みくる、古泉には何の力もない。七夕に奇怪な行動をしたハルヒという異常人間を真に満足させるには元の世界に戻るほかなかった。
確かに、「俺はハルヒに会いたかった」と思ってしまったり、すべてが解決して病室で目を覚ましたキョンが横で寝ていたハルヒの顔を触ったりといった描写ひとつひとつに注目すれば恋愛要素を見出すことはできる。キョンハル原理主義者や二次創作愛好家たちがそのようなものを見つけてうれしがるのは理解できる。しかしそれは作品の大きな流れを捨象してしまっているように思い、そのような楽しみ方は私にはできない。『憂鬱』の輪読会の記事にも書いたが、そもそも恋愛ものや青春ものとして読むのがつまらないと感じてしまう。たとえば、ハルヒの顔を触るシーンについて以下に引用する解釈はもちろん理解できるし同意もするが、私はこのような方面での解釈を積極的にしようと思わないし、またこのような解釈を採用して自分の考えをまとめることをしないというだけである。確かに、映画では原作の描写以上に性的に描かれていた。
「消失」終盤にある、キョンがハルヒの顔を触るシーンと、『脳の意識 機械の意識』や『劇場』の古泉のセリフを関連づけてみると、キョンにとってハルヒの肉体は必要なのかという疑問がわく。同時に、キョンが「ハルヒの起こす悪夢的な出来事を楽しい」と思うのは、キョンの内面のみでそのような考えに至るのか、キョンの肉体の存在がそのような思考に至ることに必要なのかという疑問もわく。これらの疑問に対する正解はないから、個人的な考えを記述することとする。キョンがハルヒの顔を触ったのは、改変前の世界に戻れたことは直前の古泉との会話で理解できていたと思うが、改変前のハルヒに会えたことを(頭ではすでにわかっているが)より実感する(身体的に理解する)ためであったと考える。私の個人的な話をすれば、「涼宮ハルヒの弦奏Revival」で平野綾や茅原実里がステージに登場したのを会場で見て、はじめて「ああ、彼女たちは実在するんだ」と思った。ハルヒのアニメの声優を担当しているのだから実在するのは当然だろと指摘されるのは甘受するが、それでも声を聴いたり映像で見るのと、実際に目の前に現れるのとでは体験や理解として全く異なっていた。
キョンがハルヒの顔(ないし身体)を触ることそのものが重要なのではない。二人が肉体と精神の両方を有しており、キョンがハルヒに振り回されることで感じる身体的な疲れや痛みだったり、長門・みくる・古泉の宇宙人・未来人・超能力者らしさを実際に目の当たりにして初めて理解できたり、『憂鬱』の終盤にキョンがハルヒの手をとって神人の攻撃から逃げたりというような、身体を通じた理解やコミュニケーションが重要なのである。私たちの身近な例でいえば、オンライン飲み会がすぐにすたれて実際に会って話しながら会合を楽しむことに回帰したことをイメージすれば、私の主張の助けになるかもしれない。
身体的に理解することの重要性については、以下の記事やラムネーションの実況で述べたつもりである。
『憂鬱』では閉鎖空間でハルヒと二人きりになるのではなく、元の世界に戻った。『消失』では改変前の世界に戻った。『劇場』では謎のアトラクションにダイブしていた精神を現実世界の肉体に戻した。これらは、キョンは元の世界(あるいは現実世界)のハルヒやSOS団のある生活を望んでいると解釈するのが一般的だと思う。しかし、繰り返しになるがこの記事での方向性でいえば、ハルヒやSOS団のある生活を楽しむには肉体が必要であるということを言ってもいいのではないだろうか。たとえばSOS団のメンバーの脳・人格などが記憶媒体に完全にコピーされてコンピュータ上で活動できたとしても、いずれはキョンが「もとに戻りたい」と望むのではないか、と思えてならない。しかしこの考えは、私が肉体のある生活しか知らないからこうとしか考えられないのであって、最初から肉体がなく精神だけで生きているのであればこのような解釈は生まれないかもしれない。実はハルヒの作中世界が、すべて肉体が存在しないバーチャルなものであったらこの説は意味を失うが、そうでないことを祈っている。
雑多な記述になってしまったが、キョンが望むハルヒらしさは以下のようなものであるというのを、いったんの結論としたい。一点目は作中では特に意識されないが私は重要であると思っているもの、それ以外はハルヒに触れていれば自然と理解できるものであると思う。これ以外にも要素を挙げることはできると思うから、これはと思うものがあればコメントで教えてもらえると幸いである。
身体的に理解できるために必要な、SOS団メンバーの肉体が存在する。これは、情報の処理だけでコミュニケーションが完結するのではなく「身体的に理解する」ことが必要だと言っているのであって、実際に肉体に触れることそのものが必要なのではない。
面白いものを求めてしまう性質がある。
実際に面白いものを見つけて(あるいは作り出して)しまう。
ハルヒに巻き込まれる形でSOS団として面白い体験ができる(たとえば誰にも知られることなくキョンとハルヒだけが面白い体験をするのは誤りである)。
キョンが望むハルヒらしさには、涼宮ハルヒという人物がいることは必要であるが十分でない。ハルヒの向こうに面白い体験があることも必要である。キョンとハルヒの間の恋愛感情は必要でも十分でもないことはいうまでもない。
おわりに(+おまけ)
映画「涼宮ハルヒの消失」は、アニメ2期でのエンドレスエイトの暴挙がなければ映画ではなくアニメ本編に組み込まれていたのではないかと思う。しかし、久しぶりに映画を観ると、30分で区切られるアニメではなく150分一本勝負の映画の方が、「消失」を表現するには適切であったように思った。「消失」が名作であることは認めるが、個人的には「憂鬱」の原作およびアニメの美しさや儚さには勝てないと考えている。第一作目は第一作目というだけで唯一無二の価値がある。これだけすごい映画を観てもなおこのように考えてしまうのだから、私はすっかりハルヒという表現物に魅了されているのである。
ファーストペンギンはそれだけで価値があるという考えは、原作『憂鬱』の輪読会に参加して私に消失の記事を書くように命令した、表現評論とメモリーズオフといえばこの男・西住さんや、アイドルと数学といえばこの男・Hirotoさんの影響を受けている。
アイドルの素人としてHirotoさんによる私立恵比寿中学の話に付け加えると、私立恵比寿中学にとってのファーストペンギンは最も近いものでいえばももクロ、もう少し広くいえば「アイドル戦国時代」という風潮、もっとさかのぼれば秋元康やつんく♂がそれにあたると思われる。
「消失」にとってのファーストペンギンは「憂鬱」および作中時系列における「消失」以前のエピソード(たとえば笹の葉ラプソディ)であり、これがなければ「消失」は生まれていない。もちろん、「消失」以降の作品はすべて「消失」の影響下にある。ある作品について考えることは、ファーストペンギンの影響や自分の思考様式という偏りによって左右される。この記事は私の偏りを前面に押し出したものであり、内容のよしあしにかかわらず興味深いと思っていただければ幸いである。(追記を含めて約7900文字)