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大吉原展の雑感
※この文章は展示の内容にはほとんど触れていないため、ネタバレにもなっておりません。
東京藝術大学美術館で開催されている大吉原展に行ってみました。
この展覧会は開催前からいろいろな物言いがつけられていました。
たとえば、漫画家の瀧波ユカリ、東京大学大学院教育学研究科教授の隠岐さや香、脳科学者の茂木健一郎は以下のようにコメントしています。
3月から東京藝術大学大学美術館で開催の大吉原展。
— 瀧波ユカリ (@takinamiyukari) February 5, 2024
「他の遊廓とは一線を画す、公界としての格式と伝統を備えた場所」
「洗練された教養や鍛え抜かれた芸事で客をもてなし…」
ここで女性たちが何をさせられていたかがこれでもかとぼやかされた序文と概要。遊園地みたい。https://t.co/8CettMKZTl
女性の境遇の問題に加え、吉原は前近代とは言え、人身売買の関わる場であった。
— おきさやか(Sayaka OKI) (@okisayaka) February 6, 2024
その文脈を見せずに無理やりポップに扱うのはいただけない。ほかの提示方法があったはず。
サイトに「美術館を吉原に」の文言があるがそこからまず変えた方がいい https://t.co/gn9K1bL7h8
#シラスフロントロー
— 茂木健一郎 (@kenichiromogi) February 6, 2024
第22回 東京藝大美術館『大吉原展』
最優秀批評家賞 Manab0rg、MIUAKIYOSHI
平均20点(最低0点、最高65点)。… pic.twitter.com/tMwLq7QTxB
大吉原展のホームページトップには以下の文言があります。
遊廓は人権侵害・女性虐待にほかならず、現在では許されない、二度とこの世に出現してはならない制度です。本展に吉原の制度を容認する意図はありません。広報の表現で配慮が足りず、さまざまな意見を頂きました。
主催者として、それを重く受け止め、広報の在り方を見直しました。 展覧会は予定通り、美術作品を通じて、江戸時代の吉原を再考する機会として開催します。
このような物言いのおかげで私は大吉原展の存在を知ったため、開催前から大吉原展を批判してきた方々にはとても感謝しています。実際に観に行って、吉原をはじめ遊郭につきものの負の側面にはあまりフォーカスを当てなかったことは美術展としては正しい判断だったと思います。博物館や歴史の展示のようなところであれば負の側面がないといけないという指摘はわからなくはないものの、美術展についてこの指摘をするのはやや的外れに思います。七五三で着物を着るときでさえ花魁スタイルが一定の人気を博していることを考慮すれば、負の側面が目立つとしても歴史から切り離されて文化として受容されている面を否定することはできないでしょう。
大吉原展に限らず、なにかが批判されているのを見て私がよく思うのは以下のようなものです。
〇自分が望んでいる内容でないことについて批判するのか?
たとえば隠岐は(開催前であった)大吉原展について「女性の境遇の問題に加え、吉原は前近代とは言え、人身売買の関わる場であった。 その文脈を見せずに無理やりポップに扱うのはいただけない。ほかの提示方法があったはず」といいます。要するに、展示が隠岐の思う方向性でない可能性があることに不満を表しています。展示の主催者側にはやりたいことや表現したいことがあり、その思いが展示に表れているか(自分が思いを感じ取れたか)をまずは批評すべきであって、それ以上のことを要求したりするのはその後ではないかと思います。茂木の見解については、開催前の妄想がベースになっているため論評に値しません。
〇主催者の意図を重要視するのか?
裁判においては事情が考慮されて判決に影響を及ぼすことはありますが、日常的なコミュニケーションにおいては行動の意図はほとんど評価されていないと思います。たとえば客観的にみていじめならそれはいじめであって、いじめの加害者とされる人が「そんなつもりはなかった」といっても周囲の人が認識を改めることはできないでしょう。自動車を運転していて、外部要因によって人をはねた事例と、本当に内心で誰かを殺すぞと思いながら人をはねた事例を比較すると、判決のちがいはあるにせよ事実認定としてはどちらも「人をはねた」と評価されるはずです。
大吉原展のホームページの「本展に吉原の制度を容認する意図はありません」という注釈や、「私は差別主義者ではないが~」「このゲームの登場キャラクターは全員18歳以上です」のような予防線は、本来は表現された事柄の評価に影響しない(内心や意図はわかりようがないから評価に用いることはできない)はずなのにそれを言わせるような状況を誰かが作っているないし求めているのではないかと感じています。吉原の制度を容認しているかしていないかで評価が変わるのであれば、それは美術展を批評しているのではなく主催者の思想を評価しているのです。
〇「指摘」による変更は「改善」なのか?
大吉原展の公式ホームページは当初はピンク色をベースにした派手な構成でしたが、現在はグレー基調の落ち着いた雰囲気になっています(このnoteの冒頭に引用した記事のサムネイルを参照してください)。瀧波や隠岐、茂木らの指摘ののちにこのような変更がなされ、また広報上の展示コンセプトも書き換えられたわけですが、これを「改善」だとか「指摘した私たちの勝利」のように認識するのはちょっと違うだろうと思います。企画を打ち出した時点の主催者側のナマのやりたかったことや主張したかったことはこの変更により多少なりとも影響を受け、それ自体は主催者にとって妨害でしかないと考えます。何もクレームをつけていない私のような人からすると、当初の展示に興味があったのにいつのまにか少し違うものにされただけであり、少なくとも好意的に受け止めるようなことではありません。基本的にはクレーマーは少数派であり、「炎上」などと表現する人やメディアがない限り炎上でもなんでもないボヤ程度であり、付け火した瀧波らと、それを延焼させたメディアによる人災に対しては、主催者は毅然と対応してほしかったなと思います(最近だと温泉むすめや三重交通の件が参考になります)。
負の側面が目立つものについてあえて別の視点をもってくることは、芸術にうとい私からすれば十分に挑戦的な試みであったのではないかと思います。たとえば原爆の負の側面は広島平和記念資料館や長崎原爆資料館、教科書で十分に展開されており、それでも新たに原爆を取り上げるなら異なる視点を提供してほしいと私は思います。同様に、吉原やその他風俗についてもこのような展覧会をほかにもいろいろと鑑賞したいです。
※私はややスピーディに鑑賞して90分ほどかかりました。大吉原展に足を運ぶ方は参考にしてください。
追記
以前に『ナチスは「良いこと」もしたのか?』という本について投稿しました。吉原もナチスも絶対悪と解釈するのが現代に生きる人間としてふつうの感覚なのだと思います。それでも私にはそうは思えない(悪い点がないということではなく、悪いと評価するべきであるという考え方が理解できない)です。
歴史上の、今日から見て存在を否定しなければならないものは、要するに全体として駄目なのです。「光と影」のような捉え方で、「良い所もあった」と言うのはおかしい。それは、平和や人権が重んじられる時代へと向かう歴史の、ある時点での「過程」だと捉えないといけない、と思うのです。
— 小島道裕@平和・人権史観🍉 (@kojimam1956) April 4, 2024