【表現評論】ヤバい女をどのように表現するか?
はじめに
最近、あきやまえんま『のあ先輩はともだち。』というマンガを読み始めた。このマンガについて表現評論をしようとぼんやり考えていた。
一方で、表現評論活動の一環としてYouTubeに動画をあげている、まどそふと「ハミダシクリエイティブ」に、錦あすみという後輩キャラがいる。主人公いわく天使のようにかわいいとされている。
のあ先輩こと早乙女望愛と錦あすみは、表現として同じ方向であるところと真逆であるところがあり、私はそこに興味を持った。この記事では、のあ先輩とあすみを題材として、ヤバい女をどのように表現するか、あるいはカモフラージュするかということを考える。
のあ先輩
『のあ先輩』の第一話で、のあが会社の後輩である主人公とひょんなことから飲みに行くことになる。のあによると、要するに彼氏に振られて傷心しているようだ。主人公がのあを慰めると、友達になることを提案される。のあが考える友達は「一緒に飲んだり遊んだり悩み相談したり素でいられる関係」「男と女とかでもなくて人として仲良し」とのことだ。なぜそんなことを持ち掛けたかというと、主人公が無性別っぽいからのようだ。
これはまた別で論じたいことであるが、『のあ先輩』はほとんどの回で1ページをまるごと使ってのあを描いている。そのコマがその回のハイライトであり、のあらしいところであり、のあのヤバさを際立たせている。
今回は第一話のコマのみを抜粋したが、これ以降も主人公にとって特別な存在でありたいとか、主人公といろいろな経験をしたいという(重い)想いが吐露されており、話が進むたびに「のあ先輩」という作品に引き込まれてしまう。まさにメンヘラである。
作中では、のあのヤバさは様々な方法で描かれている。過去の彼氏にどっぷりハマっており、代理でクレジットカードを作ってあげたあげくお金を使い込まれる、彼氏が既婚者だった、主人公に常にウザ絡みする……。完全に個人の偏見で申し訳ないが、のあほど極端ではないにしろ、女性は多かれ少なかれこのようなものなのではないかと思っている。第4巻で主人公の妹が登場し、のあと関わるのをやめるように忠告される。おそらく妹は(のあと対比したときに)まともな人間として描かれているのだと思うが、読んだ感想としては妹は妹でのあとは別ベクトルのヤバさを感じる(詳しくは別の記事で述べたい)。そのため、私の理解ではのあがヤバい女であることはわかるものの、作品全体を考えたときにのあが突出してヤバい女であるとは思えなかった。
錦あすみ
「ハミダシクリエイティブ」の錦あすみは何らかの理由で不登校な後輩である。くじ引きで生徒会長となった主人公が生徒会役員を勧誘することとなり、教員から提示された候補者リストにあすみの名前が載っていた。無事に生徒会に参加してもらい、顔合わせで雑談をしているときにあすみがどういう人物であるかの一端に触れることができる。
「居心地がいい」「男性は少し苦手」「いやらしさを感じない」などの発言は、あすみが可憐で純潔な存在であることを表現しているのだと思う。あすみ以外の登場人物と比較しても、あすみはどこか守りたくなるような存在であることはほとんどの人が同意するものと思う。しかし、「ハミダシクリエイティブ」を遊び始めたのが『のあ先輩』を読んだ後だったということが大きく影響しているのだが、のあ先輩とあすみはほとんど同じことを言っているように思えた。のあが主人公に近づいたのは主人公が無性別的だからであるし、あすみが主人公と接することができるのはいやらしさを感じないからである。一方で、描き方や表現方法のちがいによって、のあとあすみに対して正反対の印象を与えることに成功している。のあは1ページぶち抜きのコマでメンヘラっぽさを強調するが、あすみはその見た目や声色、ゲームのBGMによって柔らかい雰囲気が出ている。のあとあすみの比較については文字で読んでもあまり理解できないだろうから、ぜひ原作に触れてみてほしい。『のあ先輩』を読む前に「ハミダシクリエイティブ」を遊んでいたらこのような感想は抱かなかっただろうことを考えると、いつ何が自分の中でつながるのかわからないところは非常に面白いものだと思える。
おわりに
この記事ではふたつの表現物を題材として、ヤバい女をどう表現するかについてみてきた。のあのようにあからさまにヤバさを見せるのか、あすみのように表面上は可憐でも裏にヤバさがあるように見せるのか(あすみについては私が勝手にそう読み取っているだけである可能性はある)。『のあ先輩』の作中での対比ではのあは突出してヤバいわけではないということもできるし、「ハミダシクリエイティブ」の作中での対比ではあすみは第一印象よりはずっとヤバい女であるということもできる。
『のあ先輩』は完結まで追いかけるつもりであり、また「ハミダシクリエイティブ」の実況も妃愛ルートだけはやりきるつもりである。どちらの作品も、作品の内容よりはどのような表現がなされているかに興味を持っている。新たな考えが生まれたらまた記事を書こうと思っている。