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【表現評論】セント/ソルト佐藤『もっとライトノベルのあとがきだけを解説する本』から考える原作と周辺領域の関係
はじめに
文学フリマで購入したものを紹介する記事で、『ライトノベルのあとがきだけを解説する本』シリーズに触れた。
あと少しで開場!圧巻のブース数…!
— 【セント】@文学フリマ【こ-38】 (@central_island_) December 1, 2024
■ライトノベルのあとがきだけを解説する本
■印刷会社勤務の作者が描く、
異世界を印刷で無双する
■SFゲームブック
【文学フリマ東京39 出店!】
📍ブース:こ-38
🏢ビッグサイト西3・4ホール
📕https://t.co/hMGbni1w3D #文学フリマ東京 pic.twitter.com/we6NHUYSOC
その二作目である『もっと~』に収載されている、『涼宮ハルヒ』シリーズのあとがきに関する文章を読んで、そこから考えたことをこの記事に書く。
『涼宮ハルヒの驚愕』のあとがき
2003年にシリーズ第一巻『涼宮ハルヒの憂鬱』を刊行してから、2007年に第九巻『涼宮ハルヒの分裂』までハイペースでシリーズが大きくなっていた『涼宮ハルヒ』だが、第十・十一巻である『涼宮ハルヒの驚愕(前・後)』が発売されたのは、『分裂』から4年経過した2011年であった。『分裂』はストーリーが完結しておらず、末尾の「『涼宮ハルヒの驚愕』につづく」という文言を信じて待っていた私(や多くのファン)は、それまでの刊行ペースからするとあまりにも長いおあずけを食らったような感覚であり、作者死亡説が流れていたように記憶しています(2024年11月に最新刊が発売されたため、実際は健在であると思われる)。
『驚愕』のあとがきで、作者の谷川流は以下のように述べた。
ご迷惑をおかけしております。谷川流です。
前作から非常に間が空いてしまったことを、まずは深々とお詫び申し上げます。
『分裂』からダイレクトの続き物であるはずなのに、何故ここまで遅くなってしまったのかという時間経過的事実については、まっことながらお詫びの言葉の申し上げようすらありません。
(中略)
では、なんでまたこんなに遅れてしまったのかと言いますと、正直なところ、特に理由はありません。本当にないので困りものです。何だか突然、意味もなく何もできなくなったとしか言いようがなく、正直一般生活にも支障が出るくらいでしたが、それにしたって何か原因があるだろうと少なからざる人々に尋ねられたりもしたものの、自分自身、さっぱり解らないものですから、そんな自分でも理解不能なものを他者に説明するなど、さらなる至難の業と言えたでしょう。
(中略)
端的に推測するに、今までの人生において「怠惰」をバックボーンに生きていた自分の特性が、たまたまリミット最大まで進行してしまったから、というのがもっとも蓋然性のある原因かもしれません。
谷川のこのような弁明(?)に関して、『もっと』では以下のように触れられた。
明確な原因はなかったと氏は言うが、時系列的にはやはり社会現象まで巻き起こした大ヒットが、彼の筆に重くのしかかってきたのだろうことは想像に難くない。
「憤慨」の発刊とほぼ同時にアニメーションが開始。京都アニメーションによるハイクオリティなアニメ、だけでなく、時系列をシャッフルして放映する挑戦的な試み、作中作・朝比奈ミクルの冒険を第一話に持ってきたセンス、踊れる主題歌・ハレ晴レユカイ。これまで遭遇したことのない、いくつもの試みが有機的に絡み合い、たちまち世を席巻していく。
漫画やゲームをはじめとしたメディアミックス。声優たちによるライブは異例の盛り上がりを見せ、数え切れないほどのグッズが横溢し、遂には劇場映画化にまで至る。
幾何級数的に涼宮ハルヒの名が轟き拡散されていくその一方、谷川流氏の筆は、初めて止まった。大ヒットの裏側に潜んでいた苦悩は、いかばかりであろうか。
個人的な見解だが、彼の筆を鈍らせたのは「多忙」ではないと思っている。もちろんメディアミックス関連の監修業務なども多かったこととは思う。しかしそれは遅筆の遠因とはなりえても、要員は別にあったのではないだろうか。
私にはそれが、端的に言えば「戸惑い」だったように思えてならない。
それまで谷川流氏本人が両手の五指をキーボードに走らせない限り動かなかったSOS団の面々が、彼の手を離れて動き出し、大きく躍動していった。マンガになり、アニメになり、文字情報でしか表現されてこなかった彼らが、多くのメディアを通じてその活躍の場を無限に広げていく。
自らの生み出した涼宮ハルヒという高校一年生の美少女が、キャラクターという枠を超えて一つの「コンテンツ」へと昇華した。個人では制御しきれないほどに多くの人々が関係するためには、涼宮ハルヒという人間は記号化される必要があった。
そうして多くの大人達によって作り上げられたのは、自在に「涼宮ハルヒというコンテンツ」を我々に届けてくれる需給システムだ。そしてそのシステムの起動条件において、必ずしも谷川流氏本人の筆の介在は必須ではなかった。
その華々しき前人未到の躍進は、谷川流氏にとって至上の喜びであると同時に、戸惑いに似た、こごった何かが臓腑の底に沈殿していったのではないだろうか。自分が書くまでもなく、他人の手によって涼宮ハルヒは増殖し、選ばれ、消費されていく。その環境下、彼自身が涼宮ハルヒを生み出さねばならぬ必然性は希薄になり、意味さえも見失ってしまったのではないだろうか。
ハルヒが爆発的にヒットしたのはアニメが作られたからだろうと私は感じている。基本的にアニメは原作が先にあるから、谷川による新たな原作はそれほど必要ではない。原作を読んだことがなくても、アニメでエンドレスエイトが8週にわたって放映されたことについて知っている人は少なくないだろう。自分が書かなくても勝手に涼宮ハルヒが楽しまれるという「戸惑い」がある可能性については理解できる。
涼宮ハルヒと東方を対比させてみる
この文章を読んで、私は東方Projectのことを考えた。東方は、もともとはZUNが制作したシューティングゲームや音楽がベースにあり、そこから単行本やマンガ、二次創作に派生している。現時点では主なホームページは東方Projectよもやまニュースと東方我楽多叢誌であろう。
ハルヒはライトノベルが出発点である商業的なもの、東方は個人製作が出発点である同人的なものである、と大きくわけることができると思う。ハルヒは原作やアニメという「公式」の活動の存在が大きく、二次創作にも「キョン!〇〇をするわよ!」という原作に存在しないセリフや、アダルトビデオの「涼宮ハヒルの憂鬱」「涼宮ヒハルの憂鬱」など知られているものはあるとはいえ、影響は限定的である。一方で東方は原作のシューティングゲームをまったく遊んだことがなくとも「ゆっくり実況」などで霊夢と魔理沙を知ることがあったり、二次創作の曲は知っていたりする。たとえば、東方妖々夢の曲である「人形裁判」をもとに、IOSYSが「魔理沙は大変なものを盗んでいきました」という二次創作楽曲を作った。それがマクドナルドのCMに輸入され「マクドは大変なものを作っていきました」という「二次創作の二次創作」といえる曲が生まれた。
東方の同人誌即売会である「博麗神社例大祭」に一度だけ行ったことがある。原作者のZUNのブースには当然のように長蛇の列ができていたが、それでも大量にあるブースの数を考慮すると原作の影響力は相対的にかなり小さいように思えた。しかしこれは悪いことではない。原作と二次創作がすべてあわさって東方というものができている。東方ファンの中には原作が好きな人、音楽が好きな人、キャラクターが好きな人、ゆっくり実況が好きな人などがいるが、それらはすべて東方ファンであるし、東方を一緒に作り上げ、盛り上げていると私は考える。
東方と比較すると、ハルヒは公式の供給である原作ライトノベルやアニメが「涼宮ハルヒ」というものを形成しており、二次創作はあくまで二次創作であって、それが涼宮ハルヒを形成する部分になっているとは考えていない。ただ、2024年時点ではもう公式の供給が途絶えたとしても、二次創作によって「涼宮ハルヒ」は勝手に生き延びるのではないかと思っている。SNSではハルヒファンが常になにかしら書き込みをしているし、いわゆるハルヒコミュニティは形成されているように見える。そのコミュニティが閉じた活動をするのではなく、何かしらものを作り続けることさえできれば(別の言い方をすれば二次創作がコンスタントに作られるならば)、ハルヒは生き続ける。東方はそのような土壌が強固に存在している。ハルヒの方はどうだろう?この点では、谷川の筆が完全に止まってしまうとハルヒはどんどん縮小するかもしれない。
表現物が長生きするためには?
たとえばノベルゲームはブランドが消滅しても中古品やダウンロードでゲームを買う手段さえ残されていれば、ゲームを遊ぶことができる。ノベルゲーム好きな人たちには感想や考察を記録する文化がある(たとえばエロゲー批評空間や、note等の個人ブログが利用される)。感想を書くことは二次創作とはいいがたいが、それが他の人の目に触れることでゲームの存在を知らせることができ、また遊ばれて感想を公開して……という循環ができる。仮にハルヒの原作が作られなくなったとしても、東方のように二次創作をしたり、ノベルゲームのように感想などを書いていれば、その存在はみなに知られ続ける。表現物が長生きするのは、原作が長く続くこともひとつの要因ではあるが、私たち受け手が発信者側になることの方が重要ではないかと思う。