同性婚や個人主義、新しい思想について
ヘッダーの画像はオリコンニュースから引用しました。
はじめに
noteのアカウントを作る前ははてなブログを利用していました。そのときにサークルの先輩とのやりとりをブログに書いたことがあります。もうはてなブログをほとんど運用していないため、こちらに記事を復活させようと思います。復活にあたり、リンク切れは整理し、細かなところを修正しました。
この記事は3万文字ちかくあるため、読むときは休憩をはさむことをおすすめします。
2つの記事を整理して議論を読みやすく再編集することも考えましたが、やや面倒というのと、実際のやりとりのようすが失われてしまうため、今回は見送りました。
私が主張したいこと(要約)
あまりに長すぎるため、私が主張したいこと(同性婚に限らず、社会に関する話題全般にいえること)を整理しておきます。必ずしも本文の順番どおりではありません。
司法はあくまでも現状の法の枠組みでしか判断しないから、よりよい法のあり方を考える(べきな)のは立法や国民ひとりひとりの役割である。
あるルールの変更が、他のルールの運用や社会全体に与える影響を考える、またそのルール変更は具体的にどのようなものなのか、どのように社会実装するかを説明するべきである。セカイ系の主人公なら身の回りだけ考えればよいが、この社会はセカイ系の世界観ではない。
上記を別の言い方をすると、「選択肢が増えるだけで、あなたや他の人に迷惑はかからないでしょ」という意見は完全に嘘である。すべての行動は誰か、および何らかの組織や規則への負担や影響がある。
人が生活を営めるのは、他の人がその生活をするために必要なものをやってくれているからである。
国や共同体という虚構のうえで個人の生活が成り立っていることをふまえて、この虚構を維持できるような社会変革でないと現実的でない(革命を起こして虚構を破壊するという意見は、それはそれで理解できる)。
以下本文↓
前編
2022年6月20日、同性婚が受理されないことは違憲だとして国を提訴していた裁判の大阪地裁判決が下された。
これについて、大学時代のサークルの先輩である井上惇志 (showmore)(以下、井上惇志)とレスバ(?)になったためここに記録しておく。ツイッターでは途中でツリーが分かれてしまったり、全体を見通すことが困難になったためこちら(※補足:はてなブログのこと)に転載する。ヌケモレがあれば指摘をいただければ修正する。後輩のtkcさんとは一往復のやりとりしかないため、ここには転載しない。
ツイッターとこのブログとで見解に矛盾がある恐れがあるが、その場合はこのブログを正として読んでいただきたい。
まことに残念なことではあるが、井上惇志さん(@jiding0301)とtkcさん(@tkcper)からツイッターをブロックされたことを報告申し上げる。
↓ツリーが分離したため再掲。
井上惇志の提示した5つの論点について順にみていく。
①法律は時代とともに変化するものではないか?
これは井上惇志個人の意見を「時代」に言わせている疑惑がある。法律が改正されることは日常的に行われているが、それは単に法的な不備や執行上の問題点の是正である場合もある。このようなものは必ずしも「時代とともに変化」しているとはいえないと思う。
一方で、同性婚推進論や死刑廃止論などは、上記とは異なり「時代とともに変化」しうるものと考える。これを否定することはできない。同性婚に限定すれば札幌地裁判決で合憲という判決が下されている。地裁によって合憲か違憲かという判断が分かれており、大阪地裁の件でこのまま控訴や上告をしても一気に合憲という判断を得ることは難しい。合憲な同性婚を目指すのであれば、同性婚禁止が違憲であるという判決を取りにいくのではなく、井上さん自身が言及するように「立法において変革・アップデートされる」ことを期待して、国会議員にアプローチをしていくことが重要と考える。現段階では合憲であるという判断に対して人道的観点から疑義を呈することはできるが、法治国家として適切なルートを通る必要があるだろう。
(※補足:立法で解決するならば、日本国憲法や民法を検討する必要があると思われる)
同性愛者が法的な婚姻関係を認められないことが人権侵害か、という点については、人権侵害と捉える向きがあることに不思議はない。しかし、人権侵害を是正することによって生じうる問題の検討をすることなく是正しようというのであれば、そこには明確に反対する。
②共同体に同性婚を認めるインセンティブはあるか?
井上惇志は
と主張する。
まず、「個の集合が集団である」という主張が誤っている。例えば人気音楽ユニットshowmoreを考えてみよう。showmoreはメンバー二人からなっているが、ひとりひとりがバラバラに演奏したときとshowmoreとして演奏したときを比較して、1+1=2は成り立つのだろうか?これに限らず、個人の考えや行動と集団の考えや行動は一致しない。集団の考えや行動は、個人のそれらからは遊離して予想していない方向に進むことがある。民間企業の現場社員と経営層では現場社員の方が数が多いだろう。現場社員の考えAと経営層Bの考えがあるとすると、間違いなくBの考えが採用されるだろう。また、山本七平『空気の研究』でも述べられているように、指導者層の個人では戦争に負けるとわかっているなら戦うべきでないと考えているのに、組織としては戦闘に向かうという判断がなされることもある。
「個人の幸福の追求は即ち社会の幸福に繋がる」という指摘については、個人間の幸福がまったく衝突しない場合には当てはまることもあるだろうが、一般的に考えて個人の幸福や利害がまったく衝突しない社会は存在しないと考えるのが自然ではないだろうか。命題「個人が幸福である⇒社会が幸福である」が真とはいえない。同性婚が法的に認められたとして、税制の優遇措置などによって公金の支出が増え、それにより国民全体の金銭的あるいはその他の負担が増えたとしたら、それは社会が幸福であると主張できるだろうか。
多様性を認めることや推進することのメリット(これは同性婚に限らない)については、現在の先進国が有する人権意識をベースに考えれば、メリットが大きく感じられるだろう。一方で、多様性(同性婚の文脈でいえば平等観も含まれる)を認めて推進することが少子化に寄与していることを示唆するデータも存在する。少子化を解決すべき社会的問題と考えるならば、少子化問題は多様性や平等観を重視することとトレードオフの関係になっていると主張することが可能である。それでもなお進んだ人権意識によって同性婚を推進しても構わないが、近い領域で生じる問題にどう対応するのか(あるいは対応しないのか)について多少なりとも検討するべきではないだろうか。多様性を認めて社会が成熟することはメリットである、という主張には一部納得するものの、逆にその成熟した社会がはらむ問題にどうアプローチするのか検討しないのであれば、ただの個人のわがままと捉えられても文句は言えないのではないだろうか。
③同性婚が法的に認められた際に想定される問題点は?
私は、同性婚が少子化の原因のひとつであるとは主張していない。また、学生論文(※補足:井上惇志のツイートに、学生が執筆したと思われる論文へのリンクがある)が指摘するような同性婚の制度の有無と少子化に相関がなくとも少しも不思議ではない。同性婚の制度があるからといって、異性愛者が同性婚をすることは極めてまれであろう。異性婚をしても子どもをもうけるかどうかは実際のところその夫婦によるものであり、同性婚と結び付けて議論することに何の意味もない。いわゆる「おひとりさま」や「女性の社会進出」という比較的新しい考え方が少子化の原因になるのではないか、と私は考えるが、これは人権全般の話となるため、今回の同性婚の議論ではこれ以上広げないこととする。
「普通に考えて同性カップルが養子に迎えやすくなったりとか受け皿が広がるメリットは考えられる」というのが井上惇志の個人主義らしさを表していると考える。つまり、子をなすことをアウトソースし、社会構造にフリーライドしたうえで、子育てという部分(同性婚者からするとおいしい果実なのだろう)をかすめとることを是認している。養子を迎える権利が、子を産む女性の権利と衝突する可能性について何も考えられていない。
仮に同性婚が今の法律のままで法的に認められたとしよう。そうすると、今いる同性愛者の一部は法的婚姻関係となるだろう。すると、同性婚者は税制面での優遇を受けることとなる。優遇される人がいる一方で、社会のどこかにはその肩代わりをする存在がある。同性愛者のかわりに子を産む女性、かわりに税負担をする独身者……。いわゆる「生産性のない」人たちがこのようなフリーライドをすることを許容するかどうかについて、同性婚推進論者からの見解の存在を確認できない。
「生産性のない」人たちが優遇されることの是非については、井上惇志の指摘のように理由は何であれ子をなさない異性夫婦にも同様に考える必要がある(なぜなら「生産性」のなさは同じだからである)。たとえば、異性婚の中でも子の人数等により優遇のレベルを変える(フリーライドを規制する方向)という対応は検討されるべきと私は考えている。何の優遇もない同性婚の制度(ただ法的に認めるということ)を新たに作るというのであれば、デメリットがなかなか思いつかないため、私も反対の意思を表明していないかもしれない。しかし、これは現状地方自治体が行っているパートナー制度と何が異なるのかという疑問はある。自治体や国という社会組織から承認されるのが目的なのであれば、同性婚という制度は不要ではないだろうか。
現在は子の人数によらず法的婚姻関係にある者は優遇を受けているが、同性婚の議論と並行して、異性婚者も子の人数によって優遇に差をつけることが望ましい。
現状は、同性婚を法的婚姻関係として認めろということと、それによる優遇を与えろという主張がほぼイコールとなっていることは否めない。同性婚・異性婚ともに「優遇はもらうが社会構造の維持や発展(たとえば子をなすなど)には寄与しない」という思想の人々が増えると、長期的には人口減少や国家の存続が危ぶまれるだろう。先進国を中心に「自分らしい生き方」を重視する個人主義が優勢であるが、どこまでも広げてよいとはいえない。
大阪地裁判決要旨を引用する。
井上惇志ら同性婚推進論者は、どのような法的婚姻関係が望ましいと考えるのか示すべきである。具体的な提案に欠けるなら司法も立法も行政も変わらないし、一般人にもゴールが伝わらない。
また、個人主義をベースに同性婚を認める考えをするならば、同じ理屈によって民法で禁止されている重婚や近親婚も「自分らしい生き方」をもって認めるべきという考えも自然に発生する。もし、同性婚は認めるが重婚や近親婚を認めないと考えるならば、その理由はなんなのだろう。子をなすことや社会構造の維持を重要視するなら、同性婚よりもまず重婚や近親婚を解禁する方がよいと主張することも可能である。同性婚単体の議論ではなく、婚姻全般について議論することが求められるのではないだろうか。
④結婚のあり方と家族の形
③でほぼ書いてしまったためここでは簡単にまとめる。婚前交渉は法的婚姻関係や優遇と関連がないためここでは取り上げない。
井上惇志は
と主張する。
現実問題として、事実婚も含めて結婚するかどうか、子をなすかどうかは個人の裁量に任されている。この観点でいえば、同性婚は法的婚姻がないという意味で平等でないと主張することはできる。少なくとも、個人や民間において異性愛や同性愛に関する偏見は昔よりは少なくなってきているだろうし、祝福もされるだろう。個人や民間のレベルでは「価値観は喧嘩」することはあまりないと思われる。しかし、この考えを共同体や国家が法的に認めること(現行法のもとでは優遇を与えること)に拡張することには飛躍があると指摘したい。個人主義と社会全体の正義は衝突することがある。
これはもはや同性婚に限った話ではない。
「今まで通り結婚して子供作る人は作る。作らない人は作らない。結婚したい人はする。しない人はしない。その平行して存在しうる営みの中に一体どんな「人間社会をおかしくする」要素が?」と井上惇志は主張するが、たとえばアーティストのような「自分らしい生き方」を選択できるのは、子をなしたりインフラを整備したり、ある意味で常識に囚われた「時代遅れ」な思想や生き方をする人たちのおかげであるという事実を完全に無視している。「男女平等」「教育機会や雇用機会の均等」なども、そういった生き方や思想をもつ人の存在は、身の回りとは限らない誰かの存在(犠牲といってもよい)の上に成り立っている。たとえば下記のような意見は社会へまったく目をむけていない。
「生殖は人間にとっての一側面なだけであって本質では無い」という意見は人間の社会的あるいは文化的な一面にフォーカスしているように思える、アーティストらしいコメントだが、生殖がなければ井上惇志は存在していないことを認識することは一定の意義があると考える。
⑤そもそも「議論」されているか?
これについては公的および個人的な議論は活発でないといえる。しかし、今回のように同性婚が話題になれば「同性婚」についてのみ(他の婚姻や社会への影響は?)、ウクライナからの避難民の受け入れが話題になれば「ウクライナからの避難民の受け入れ」についてのみ(他国の難民を差し置いてウクライナを優先する道理はあるのか?)が話題になる印象がある。周辺領域も含めた議論が望まれる。
社会的な問題についてはよく「海外では~」という意見が散見される。海外の制度が適切である(日本にもフィットする)保証はない。井上惇志が提示した学術会議の資料も「海外では認められているのだから日本で認められないのはおかしい」というような学者とは思えない記述がみられ、これをまともに通読することは苦痛である。文書の性質上、婚姻制度については同性婚のみが取り上げられているが、性的マイノリティの文脈でも婚姻制度の文脈でも、周辺の領域も含めてどのように乗り越えていけるのかを提示してほしかったとは思う。
後編
注意事項
本記事は前の記事から引き続き、同性婚の是非に関する私の意見をつづったものです。主張に過激な要素が含まれるため、単に社会で話題になっている同性婚に興味がある、という程度の方が本記事を読むと心を痛めるおそれがあります。相応の覚悟をもって本記事を読まれることを推奨いたします。内容に関する批判等はコメントにて受け付けますが、本記事を読んで不快になったり傷ついたりされたとしても、私は何も対応できません。よろしくお願いいたします。
上記の記事に対して井上惇志からいただいたコメントについて、井上惇志の箇条書きに沿ったものは(1)(2)...で、それ以外に私が取り上げるポイントを(a)(b)...で考えることとする。ポイントの冒頭で井上惇志のコメントを、誤字を修正したうえで転記するが、手入力であるから多少の誤植があるかもしれない。また、私の本名が記載された部分は「さなえ」に置換することをご了解いただきたい。
(※補足:①から⑤の見出しについては前編の記事のものと同じです。つまり①-(1)-(a)のように話がブレイクダウンされます)
本当に私が触れたかったのは、同性婚を法的に認めるかどうかということではない。同性婚など「自分らしさ」「自分の生き方」を公的・私的を問わず認めてほしいという信条があることを否定しない。しかし、公的に認めることと、公的なサービスあるいは福祉を与えることは分離してそれぞれの意義を考えるべきである。同性婚に限れば、私は「現行の憲法や法律の枠組み、優遇を変えることなく同性婚を法的に認めることの是非」について否定的な立場である。個人主義が進んだことによって、かえって「結婚とは何か」「子をなすとはどういうことか」という、これまで顧みることなく過ごすことができていた「時代遅れ」な思想・発想を考え直さなければならなくなっている、という現状を指摘したい。こういう現状にあるならば、個人主義者もそうでない者も個人主義や自由主義を批判的吟味し、問題を乗り越えるべきではないだろうか。
①法律は時代とともに変化するものではないか?
(1)個人の意見を「時代」に言わせているか
井上惇志の「社会状況に合わせて法改正や整備の議論がされるのは自然なこと」という主張には同意する。井上惇志の意見を「時代」がサポートしているのではなく、「時代」の考え方を井上惇志が受け入れている(どちらが先に生じた考えなのかは問わない)、というように解釈しなおした。法改正の動機はなんでもいい(運用上の問題がある、法で保護される人を増やすべき、など)。
私の「時代に合わないというレベル…」というのは、「この憲法や法律は時代遅れ(先進的な人権意識に反する)だから改正しろ」という同性婚推進論者によくみられる主張に対して、
そもそも同性愛自体は憲法や法律で禁止されていない
個人の権利を守る意義に一定の理解は示すものの、国や共同体の秩序(あいまいな表現だが)への影響が論じられていない
ことをふまえて、それでもなお同性婚を法的に認めるべきである、という議論がみられないことに対する疑問である。同性婚推進論者には「時代に合わない」ことと「憲法や法律の改正が必要であること」の間を埋める説明が不足していると感じている(同性婚が認められないことの違憲性を問うた原告の主張を分析すればみえるものはあるだろう)。「時代に合わない」という言説も同性愛者の人権の側面で論じられるように思うが、裁判で勝てない以上は異なる理由や改善した理由をもってくるのが筋ではないのか。
(2)違憲判決を求めるのではなく、立法においてアップデートされるべきではないか
尊属殺の説明については以下のリンクに譲る。
「合憲な同性婚」という私の表現がよくなかった。同性婚推進論者は、憲法上も法律上も同性婚を禁止しない状態を目指しているのだと理解している。立法のアプローチは、同性愛の当事者や「族議員」が国会議員になれば進みやすくなるかもしれない。
(3)人権侵害を是正することによって生じうる問題を検討すること
基本的人権が尊重されるという憲法の条文があるのは事実である。一方で、現段階では「同性婚が認められないことは基本的人権の侵害か」という観点では合憲という判決が優勢であることから、同性婚が認められないこと(憲法上は「禁止」とは書かれていない)は基本的人権の侵害とはいえないという司法判断であることも認めなければならない。井上惇志が基本的人権について特に興味関心があることは理解できた。
奴隷制の例は歴史を振り返りながら考えれば、奴隷側は解放を要求していたし、所有者側は制度を守ろうとした。今回の件においては私が所有者側と同じような議論を展開していることは認める。私は「奴隷制は人権侵害にあたるため廃止すべき→奴隷制が廃止されることによる社会的な不利益やコストの増加について議論されるべきでは?また”奴隷を使役する権利”も同様に存在するのでは?とはならないでしょ。当たり前だけど」とは思っていないのである。人権を重視する観点からいえば「当たり前」と思うだろうが、そう思わない人もいる。だから井上惇志の反論は(少なくとも私には)有効なものになっていない。「当たり前」という言葉は前提を共有していない人に使うものではない。
法の下の平等に関する個人的見解を記載する。
法の下の平等とは、人間の性質によって運用が変わらないことを指していると理解する(第1項)。この解釈を採用すれば、憲法24条の婚姻の自由も人間の性質によって「運用」は変わっていない。異性婚が認められるケースと認められないケースの両方が存在することはないし、同性婚は一律で認められていない。したがって、同性婚を認めていないという現状は法の下の平等に反しているとはいえないという私なりの結論が導かれる。
「法の下の平等」の「法の下」の解釈に自信がなかったため調べてみた。
第38号の資料を参照すると、以下のように説明されている。
私の解釈は非通説の法適用平等説にならったものだとわかった。通説を採用して同じ問題を考え直すと、婚姻の自由の「両性の合意」という文言は同性婚に対して平等でないから、法の下の平等に反して違憲である、という判断になるだろう。これは勉強になった。
大阪地裁と札幌地裁の判決は、法の下の平等を定める憲法第14条について合憲と違憲とで判断がわかれている。私の感覚ではどちらも通説である法内容平等説を採用しているように思えた。
(a)トピックを恣意的に選択することについて
この話は③(3)と関連している。
いただいたコメントには「AとBはレイヤーが異なる」「同列に語ることはできない」という文言が散見される。井上惇志はAとBは別の話だからという理由でそれ以上論を展開しない。私は論を展開するうえで、関連する領域としてAとBを持ち出している。たとえば、私は個人の自由を重んじる人々がどのような考えなのかを知りたいという背景もあり、同性婚とともに考えるために婚姻関係という観点では同じ集合に属する重婚や近親婚を挙げたが、井上惇志はレイヤーが違うとして一蹴した。婚姻の自由は自由権に含まれ、自由権は基本的人権に含まれるから、婚姻の自由は基本的人権に含まれる。婚姻という集合は本来的にはあらゆる婚姻(同性婚や重婚、近親婚など)を元にもつ。したがって、重婚や近親婚について同性婚とはレイヤーが異なるという井上惇志の主張は論理的に誤っている。性的指向と性的嗜好の違いについては、後述の③(3)をご確認いただきたい。
同性婚と重婚、近親婚とでレイヤーに違いがあるとすれば「現時点で訴訟等を通じた社会問題と認知されているかどうか」が違いを生む要素と考えられるが、そうすると井上惇志は異性婚を除く婚姻という同じ集合の中から同性婚を恣意的に選択していることになり、重婚や近親婚を望む(おそらく同性婚よりも対象者数の少ない)マイノリティを無視していることになるし、そこに何の疑問も感じていないのだろうか。
これは重箱の隅をつついているわけではない。井上惇志自身がマジョリティとマイノリティを対比させて論じており(たとえば②(1)において)、応援したいマイノリティ(今回でいえば同性婚)を恣意的に選択することの合理性や整合性を問うているのである。同性婚を応援しているのか、マイノリティを応援しているのか、どちらの立場かを明確にすることは論を展開する上でも被応援者への誠実さの観点でも重要と考える。その恣意性を隠し、個人主義者がマイノリティの味方として正義面をするのは理解できない。同性愛者を踏み台にして自分(井上惇志)が「ただしい」存在でありたいと願っているだけではないのか。
法の下の平等の解釈に法内容平等説を採用するならば、同じ婚姻という枠組みに含まれる重婚や近親婚について、民法で禁止する合理性と憲法が定める婚姻の自由とを並行して論じて、「同性婚が法的に認められた際に、婚姻に関して法の下の平等が成立しているか」について事前に確認すべきではないか。
もし社会的に問題になっているかいないかによって論じる内容を選別しているのであれば、それは自分の中で問題としないマイノリティを選択することでもあり、それは広くマイノリティに賛同するという考え方(もしそう考えているのなら)と相反するのではないか。法も個人の考えも、枠組みを決めるという点ではどこかに線引きをしている。その境界線によって何らかの差が生まれるのは事実である。どこかに差別的要素が残る形でしか枠組みの制定および改善はできないのだから、自分の中の無意識的な恣意性と差別意識を自覚したうえで、平等について考えてほしい。
②共同体に同性婚を認めるインセンティブはあるか?
(1)集団の考えや行動は、個人のそれらからは遊離して予想していない方向に進むことがある
心理学用語としての集団錯誤(集団は固有の心性を持つという概念)については、私は共同体や国家が「こころ」を持っているとは主張していないことから、集団錯誤だとの指摘は的外れであると考える。会議などで個人が考えていることと異なる結論に至ることはよくあるが、それは集団がすでに答えをもっていてそれに個人が吸い寄せられている運命にあったということではない。個人の考えの集合からどのような集団としての決定に至るかは、感情や論理では説明できない偶然の要素が無視できない(ばらつきが生じる)。「共同体は求めていない」という結論および実際の状況は「固有の心性」ではない。
「遊離して」の部分から集団錯誤を発想したのかもしれない。個人が後から考えて「集団としてなんでこんな決定をしたのだろうか?」と思い返すことはままあると考えており、これを「遊離して」と表現している。
また本筋ではないものの、「プーチンが戦争をしかけたとて”ロシア”という集団が戦争したいと考えたからした、というわけじゃないよね」については、プーチンは実質的に独裁者とみなされていることをふまえると、プーチンが戦争をしかけたこととロシアという国が戦争をしかけたことは同値であるという主張は、「プーチンとロシア(=ロシア国民すべて)は集合として同じではない」という数学的な論理の指摘以外で崩すことは困難であると思われる。
同性婚の問題は、マジョリティ vs マイノリティという図式にあてはめることが適当ではない問題であると私は考えている。井上惇志はマジョリティを異性愛者もしくは同性婚反対論者、マイノリティを同性愛者もしくは同性婚推進論者と認識しているのかもしれない。たまたま見つけたアンケートを引用すると、賛成に近い意見を持つ個人は半数を超えていることから、少なくとも同性婚推進論者をマイノリティに置くことの妥当性は考えなおすべきである。
すると、井上惇志の主張する「制度変更に強い影響力をもつマジョリティが、マイノリティの要求を無視し跳ね除けたとしても…」の根拠が崩壊する。単純な数の論理でいえば、同性婚推進論者が多いにもかかわらず同性婚が法的に認められていない現状は、結果としてマジョリティはマイノリティの意見を跳ね除けきれてはいないことになる。もちろん、憲法や法律の制定や解釈を行う人たちに同性婚反対論者が偏って存在することの可能性を否定するものではない。また、自身が異性愛か同性愛かで同性婚を認めることの賛否がかわる可能性もある。
「共同体がそれを求めていない」について「表現として不適切」とは言及されている。これは内容については特に異論はないということではなく、井上惇志の文脈からいって「共同体は求めているがどこかでストップしている可能性がある」という解釈であっているか。そうであれば、その意見は一理ある。確かに、上のアンケート結果を引用すれば多数決として「共同体は同性婚に賛成である」という主張が可能である。しかし、この主張には疑問を呈したい。このようなアンケートにおいて、社会的な背景まで含めて考えたうえで回答する人は圧倒的に少数である。そこまで考える時間は与えられないから、自分や周囲への影響程度しかアンケートの回答には反映されない。アンケートの回答はほとんどがミクロ視点だが、実際に制度を設計し運用する共同体はその性質上マクロ視点を有することから、アンケートの回答をどんなに集めてもミクロ視点(自分の身の回りを考慮したもの)がマクロ視点(社会全体を考慮したもの)に変身することはない。
共同体を、共同体の構成員一人ひとりの総和と考えるか、ルールを決める権限を有する一部の人間に限定するか、「共同体」という構成員の総和とは異なる概念を想定するか、などの想定のズレによって、私の「共同体が同性婚を推進するインセンティブがない」という意見の捉え方が変わってくるかもしれないと、これを書きながら思った。私は構成員の総和とは異なる「共同体」という三番目の概念を想定しており、この「共同体」は構成員の考えではなく法や社会秩序によって動くと考えているから、税制優遇などの話を持ち出して現行の法のもとでの同性婚には反対している、という説明ができる。
(※補足:思想がどこにあるのかという点は、東浩紀がルソーの「一般意志」や「全体意志」の概念を借りて議論しているものと関連づけることができるかもしれない)
(2)命題「個人が幸福である⇒社会が幸福である」は真か
「自分や自分の家族が異性愛者だから関係ないしな…」と思っていたとしてもアンケートの結果だけをみれば同性婚賛成が多数派である。ただ、「同性婚が認められても、異性愛者の自分には影響ないから、選択肢を増やすためにもとりあえず賛成しておこう」という考えの人がいることは容易に想定される。井上惇志が、思考過程はどうあれ同性婚に賛成ならOK、という思考であるならば、「とりあえず賛成」するような人は私の敵になるのだが……。
「制度改正によって少しでも生きやすい人が増えるのは社会にエネルギーを産み出すだろうことは想像に難くない」という主張については、感覚的には理解できる部分もある。しかしながら、前記事で個人主義の話をしたことと関連させると、社会の構成員の一人ひとりの生き方だけにフォーカスすれば生きやすい人が増えることは確かによいことではあるが、これが社会全体としてエネルギーが産み出すという主張はただちに導かれるものではない。「量的なコストと比較するのはナンセンス」という意見もまた理解できない。エネルギーやコストや定量的あるいは定性的に測定することは現実的に困難な場合があるものの、共同体が何らかの制度設計をする段階においては、得られるエネルギー(メリット)やかかるコスト(デメリット)を比較しようとはするだろう。共同体は構成員の総和であるという個人主義者的発想に立つと、共同体の制度設計によるメリットには着目する一方でデメリットは考慮しないような、共同体に対して責任をもたず非合理的かつ視野狭窄な意見が出てくるのだろうか。
「マジョリティ…不利益と、マイノリティ…不利益を同列に語ることはできないよね」という主張については、それはその通りだろう。だが、だからなんなのか。文脈を考えると、井上惇志はだからこそマジョリティの不利益を考慮する必要はない(優先度は低い)と主張していると読み取れる。2つの不利益を同列に語ることができないことと、だから制度変更によって受ける不利益を考慮しなくてよいということはギャップが大きく説得力に欠ける。負債を清算する大義によってマジョリティの不利益は正当化されるのだろうか?
(3)多様性を推進することが少子化を加速するか
井上惇志の「多様性を認めることとそのメリットは疑いようがない」という主張に対する私の意見を、前回の投稿で書けていなかったかもしれない。私は、少なくともこれらのメリットがないとは主張していない。メリットとデメリットを比較した際に、デメリットの方に注意を向けているだけである。
井上惇志の指摘のように、「進んだ人権がある⇒少子化が進む」は相関がみられたとしても論理的に真ではない。逆が真かどうかもわからない。多様性のデメリットとして少子化が候補(可能性)として考えられる、程度に捉えていただければ幸いである。
現時点ですでに井上惇志の主張の端々にみられるような個人主義が先進国を覆っている。同性婚を法的に認めることが先にあってから個人主義が活発になるのではなく、個人主義(というよりも進んだ人権感覚の方が正しいかもしれない)が活発になることが先にあり、同性婚や生涯独身、生涯子なしへの抵抗感が薄れてきていると推測している。同性婚を法的に認めないことが少子化の進行を抑制する一因になるとは考えていない。同性婚よりも先にある(井上さんの主張では同性婚の後にある)個人主義に対して何らかのアプローチをとるべきと考える。
ここからが井上惇志との考え方の違いがはっきりと表れる部分と思う。井上惇志は「個人主義、自由主義下でも子供を作りたい人が安心して自由に作れるような社会制度の整備」が必要と主張する。
一方で私は「(同性婚を求める声が大きくなってきた背景にもある)いきすぎた個人主義や自由主義を是正(時計の針を戻すような感覚)して、共同体が子どもにリソースをさくことのできる社会制度」が必要と主張したい。
現状の個人主義をよしとするか否かがそれぞれの主張の違いであろう。前記事でも例としてあげた「おひとりさま」や「女性の社会進出」、「子をなさない婚姻関係」が個人主義を象徴する考え方である。これらに手を突っ込んで「女性の人権を剥奪して子をなすことを最優先する」という政策を実行することは、現代の人権フィルターや偏見、倫理観をはずして考えれば、歴史的に考えてもこれは少子化対策のひとつの案であることは否定できない。実際には今日の人権感覚がこの思想の実行を阻んでいるだけである。井上惇志が危惧している「産みたくない人、産むことそのものに消極的な人を出産に引き込む」ことは、実行可能性は別として対策としては有効であり、したがって共同体が最終手段的にこれを採用する可能性を否定することはできない。戦争のために、ウクライナの成人男性がウクライナからの出国を禁じられたように、有事であれば人権は簡単に蹂躙される。少子化が進行しすぎ、もはや共同体(主に国家)の存続を脅かす「有事」と考えられる状況にあれば、どこかの国家が人権を剥奪して対策に乗り出すことはありうる。個人主義者や自由主義者は自分が共同体のもとで自由を謳歌しており、共同体は構成員の(単純な)総和だと考えるために「共同体」という虚構を認めない。「共同体」が提供してくれる自由や平和はあって当然と考える。私は「共同体」は虚構だが、「共同体」の維持や管理を行っている人間は確実に存在すると考えている。みなが自由選択で子をなさなくなったとしても「共同体」が提供する自由や平和が守られると思っているならお花畑もいいところである。同性愛者を救っても、将来の縮んだ共同体に生きるすべての個人(この中にも同性愛者は含まれる)のことは見捨てている。自分が死ぬまで「共同体」が存続するならそれでよい、それ以降は知らぬ、という思想に立てばわからないこともない。
子を産んだ後の社会復帰が困難などの問題はあるだろう。しかし、男女共同参画白書によれば女性の社会復帰は改善してきていることがうかがえる。パートタイマーの増加が大きいが、フルタイム雇用も改善している。フルタイム雇用をもっと増やしたいということであれば、配偶者控除を廃止することも現実的な対策として考えられる(収入を一定の金額に収める動機がなくなるため)。キャリアが閉ざされることは確かに女性側のハンデを無視できないが、女性のキャリアも考慮して主夫になってくれる男性と結婚するというミクロな解決策はある。
(※補足:最新版の男女共同参画白書があるだろうが、それは確認していない)
現在、世界的に少子化が進行している傾向は認めなければならない。個人主義や自由主義を謳歌し、共同体に対する責任(明文化はされていないから虚構的な面もある)をほとんど感じない人が増えれば、それ自体は子をなすかどうかという個人の決定を妨げるものではないが、いずれは「共同体」が存続できなくなり、それに付随する個人主義や自由主義の崩壊が発生すると考えている。だから、私は現在の個人主義や自由主義の権利を一部抑圧(デメリット)してでも「共同体」の存続(メリット)、たとえば子をなすことに何らかの優遇を与えるなどの具体的方法を採用すべきと考えている。「共同体」がなければ男女平等やジェンダーフリーは実現できない。男女平等やジェンダーフリーでは腹は膨れない。「共同体」がなければ福祉もなく、男女平等などを考える余裕もない。
③同性婚が法的に認められた際に想定される問題点は?
(1)同性婚は子をなすことをアウトソースし、社会構造にフリーライドすることか
養子縁組と里親制度は異なるものだが、今回は「実親以外が子を育てること」という観点から同一視することとする。参考のため、養子縁組の条件を引用しておく。
同性婚者は原理的に自分たちで子をなすことができない。子はどこかからコウノトリが運んでくるものではなく、当人らは意識しないかもしれないが子をなすことを他の誰かがかわりにやってくれている、という事実は動かない。「子をなす」という行為をアウトソースしていることは事実である。「自分たちで産み育てる」夫婦と「産むのは別で、育てるのみ」の夫婦を同じ法的婚姻で認め、優遇を与えるべきかどうかについて、私は反対の立場である(前記事で言及したように、同性婚のみならず子をなさない異性婚も同じように考えている)。
養子を迎える権利と子を産む女性の権利の衝突については、自分で自分の文章を読み返しても意味不明な部分がある。こう訂正することはできるだろうか。実態として養子として出されるのは「望まれなかった子」が多いだろう。その「望まれなかった子」を産むことには、望んだ子を産むときとは異なり多少なりとも女性の傷つきが発生する。養子を迎えることは「人に親切にする」側面がある。養子を迎える行為には善性があるものの、その善性は養子を産んだ女性(共同体構成員)がいることで発揮されたものであり、言い方を変えると社会構造のおかげで、女性を傷つけた(女性が傷ついた)ことで発揮されたものである。結果として傷ついた人の上にある同性婚者の「自由な生き方」を認めることは共同体へのフリーライドとはいえないのか?
井上惇志は「ジーンではなくミーム」というリリックが好きなようだが、共同体は「あなた」の遺伝子が子に残されるかどうかは重要視していない。遺伝子ではなく人間、ジーンではなくビーイングが残されることが重要である。だから、慣習としては自分たちの子は自分たちで育てているが、極端にいえばだれが子育てをするかは重要ではない。自ら子をなした夫婦や家族以外の大人は保育士と同じである。ジーンを残さずにミームを残すのは、社会への還元の一面があることは否定しないものの、子どもを利用して自己満足を得る行為である。これを個人主義といわずして何といおうか。
(2)同性婚者の税制面での優遇の是非
「肩代わりというレベルでの税負担増に繋がるのか」という疑問については、問いが不完全である。私が「肩代わり」と言ったのは、税負担のことだけではなく、子をなすことなどの共同体維持に必要なこと全般を指している。また、同性婚者以外の広い意味での負担増のみならず、同性婚者が得る負担減も相対的に負担の勾配ができることから、これも「肩代わり」に含めている。同性婚者以外の税負担増が肩代わりといえるレベルかどうかという問いに対する回答は「人による」としかいえない。しかし、共同体の立場から同性婚者が得る優遇に対してどのような「見返り」があるかというと、金銭的な見返りはないし、同性婚者が子をなすことはない(できない)。子をなすことは、同性婚者はどうしても共同体の他の構成員に肩代わりしてもらうしかない。もちろん、同性婚者もそれぞれの職業や私的な活動によって何らかの形で社会に還元するものはあるだろう。だがこれは同性婚者に限らずほとんどの成人が行うことであり、同性婚者に対してのみその還元の価値にウエイトを置いて評価することは正当ではない。
「自分と関係ない人が優遇されるのがズルい」という考えが本当に存在するかどうかの検証は行わない。井上惇志のいうようにこの考えが「蔓延」しているならば、現状認められている異性婚に対しても優遇はおかしいという意見があってもよいはず(ほとんどの人間は自分とは直接の接点のない存在だから)だが、私は一度もそのような意見を見たことがない。
同性婚を異性婚と比較して論じようとするとき、子をなすことという違いは無視できない。数学で変数を文字でおくように、子をなすことを「生産性」と表現しているにすぎないから、そこに差別は内在していない。あえて「生産性」という単語を用いる必要があるか、という指摘がありうるが、生産性と書いた方が文字列としてコンパクトであるし、他の文字列で適当なものがない。今回の議論の「生産性」の対象は「女性は産む機械」のように女性に限定していない。同性婚者は生産性がないし、子をなさない異性婚者も生産性がないし、性別を問わず独身も生産性がない。どのような表現を用いるかは印象の範囲で影響はあるものの議論の本質ではない。実際、井上惇志の指摘によって両者のことばに対する感受性のちがいが現れたから、新たな発見につながったという好意的な解釈は可能である。
「いわゆる」という言葉が辞書的意味において適当でないという指摘はその通りだから、「いうなれば」などと訂正しておく。
(3)異性婚者も子の人数によって優遇に差をつけること
この話は①(a)と関連している。
優遇にインパクトがないというのであれば、全く優遇のない法的同性婚でも許容されるのか?
婚姻による優遇が存在すること自体に反対するのではない。控除を受ける納税者本人の年収によって受けられる控除額に差があるように、子の数に応じて優遇に差をつけることには一定の意義があるのではないかという提案をしている。前記事で「何の優遇もない同性婚の制度(ただ法的に認めるということ)を新たに作るというのであれば、私も反対の意思を表明していないかもしれない」と書いたが、これをもう少し広げ、たとえば子をなしていない異性婚者と同性婚者については法的関係になることによる権利および義務(相続権や貞操義務など)は現状と同じものを認め、それ以外の一切の優遇を与えないこと、また異性婚者の子の人数によって優遇を付与していくような制度設計をすることには、個人(夫婦)に対して共同体の維持への動機を与えるといった一定の合理性が認められると考えている。これであれば、子をなさない夫婦が強制的に離婚させられるとか、子をなすことを婚姻時点で宣言しない男女の婚姻を認めないなどといった強引な制度を設計する必要はない。
私が展開している議論にはなるべく「(現在の権利意識に照らして)普通に考えて」とか「社会通念上」という暗黙の了解を含めないように努めている。前提条件から問い直すことは新たな制度設計の可能性を見出すことに有用である。社会通念というものはたまたまうまく普及したシステムであって、普及していることをもって社会通念が正しい、よい考え方であるとはいえない。
確かに、現状は事情により子をなせない異性婚者が法的婚姻関係になることについて不適切とは考えられていないだろう。井上惇志は、だから「結婚には出産・育成が増すと(もしくは主目的)と言う考えが社会通念になっているとは言えない」という主張をする。この主張は正しい。なぜなら社会通念が自明であり正しいものという前提でこのように主張しているからだ。しかしながら、このような前提は正しいのか。少なくとも子をなす意思や能力の有無に対して婚姻という間接的な形での法的保護を与えることの重要性については、札幌地裁判決では否定されていない。
性的指向の定義にはゆらぎが認められる。たとえば法務省は「性的指向とは、人の恋愛・性愛がどういう対象に向かうのかを示す概念を言います」と説明している。
「どういう対象」という文言から、それが性別に関するもののみとは読み取れない。この説明を採用すれば、同性婚と重婚、近親婚はレイヤーが異なるという井上惇志の主張の根拠は崩壊する。もし、女性学の分野で使われているように性的指向(どの性別を好きになるか)と性的嗜好(あらゆる性の好み)の違いをもってレイヤーが異なることを受け入れたとしよう。すると井上さんが考える「レイヤー」が受け入れる範囲が非常に狭く、1つのレイヤーには同じ概念しか含むことができない。「レイヤーが異なる」とは、他者による近い概念の比較すら許さず、自らは議論から逃げることのできる優秀な魔法の言葉である。
また、性的指向は生まれながらのものであって本人にはどうしても変えられないが、性的嗜好(具体例をあげればロリが好きなどだろうか)はそうではないという説明もおかしい。定義からいって性的嗜好の中に性的指向が含まれるから、性的嗜好の元はすべて本人には変えられないものだとはいえない。ロリが好きだという性質は生得的ではじめから顕在していたものか、そういう表現物に触れるなどして後天的に得たものか、生得的だが顕在が遅れてみられたのか判別できない。井上惇志のいう性的嗜好は厳密には「性的嗜好から性的指向を除いたもの」が正しい。井上惇志のいう「性的嗜好」の具体例を教えていただきたい。
概念に含まれる元が現実世界に存在するかはここでは問わないが、先天的であり変えられない性の好みであるA、後天的であり変えられる(個人が選択できる)性の好みであるBという2つの抽象的概念を用意する。AとBに共通する元はない(排反である)とする。井上惇志の主張は「Aによる差別は認められない、法の下の平等に反している」と言い換えることができる。これには私は賛成する。「同性婚が法的に認められる」という文字通りの内容に賛成か反対かについては、私は井上惇志と意見が衝突しておらず、両者とも賛成であると考える。何度か述べていると思うが、私は優遇のある同性婚を法的に認めることに反対しているのであり、何であれ同性婚を法的に認めることすべてに反対しているわけではない。一口に同性婚といっても付随する権利や義務、優遇をどうするかによって複数のパターンが考えられ、パターンによって賛成と反対が分かれているということを主張している。
「まず同性婚について議論し、その不平等が解消されてから、婚姻制度について必要があれば改めて議論したり、運用上の不具合を改善するという順番ではなぜダメなんだろ」という意見について、法の制定や改正の順番が、同性婚が先で他の婚姻について後になることはかまわない。しかしながら、社会を構成する様々なルールにおいて、あるひとつのルールの制定や変更が他の既存のルールの内容や運用にまったく影響を及ぼさないということはありえない。任意のルール1つを取り出したとき、相互依存するあるいは一方的に影響を与える/与えられるルールは必ず存在するし、ルールを介して個人にも何らかの影響はある。そのため、同性婚を法的に認めることを考えようとするとき、婚姻制度全般などの影響が及ぶことが容易に想定される範囲の法の内容や運用について考えることは、社会活動をスムーズに維持するためにも必要なことなのである。狭い範囲しか見ずに、制定や改正する法がどのような影響を与えるかまったく考えずに生まれた法の例は、最近のAV新法である。現場の商慣習等が考慮されていないことから制定直後から運用上の問題が生じ、女優個人にも悪影響が出ている。同性婚を推進することがかえって同性愛者に悪影響が出ることはただちには考えにくいため、推進することの悪影響が他の人間に及びうるかどうかがなかなか考慮されないのだろうと思う。プログラミングにおいてバグやエラーを取り除いたと思ったら、別のエラーが発生してしまうことはよくあることと理解しているが、なぜこれが法律の話になると理解できなくなる人が多いのか、私にはわからない。
同性婚が法的に認められたなら同性愛者が多少なりとも救われるのは本当だろう。しかしながら、共同体には同性愛者ではない人も多く存在するから、その個人に対する影響や共同体全体に対する影響を見積もることは行われるべきだろう。「個の集合が集団」と主張しておきながら、同性婚者以外の集団の元に対してあまりにも無頓着である。ツイートやコメントの全体的な印象として「身の回り」で思考の範囲がとまっている。
補足として、大阪地裁の判決文の読解に関する弁護士のツイートをひとつ紹介する。
④結婚のあり方と家族の形
(1)「自分らしい生き方」を選択することができる足元にあるもの
「自分らしい生き方」はあらゆる人生に対して言えることだ、という井上惇志の指摘は正しい。私が今所属する会社で仕事をしていることも、何を食べいつ寝るかなども「自分らしい生き方」であることは間違いない。私がアーティストを例に出したことが不適切だったと考える。このせいで井上惇志を感情的にし、いらぬすれ違いを招いたことは認める。なぜ人間は事実を指摘されると怒るのか。よほど辛く苦しい思いをなさったのだろう。
訂正しながら論を展開する。
自分らしく生きること(あらゆる生き方)はだれかのおかげで成り立っている、ということは両者とも合意するものと考える。だから、あらゆる生き方は社会構造にフリーライドすることで成り立っているという主張にも合意してほしいと思っている。電車に乗ることも音楽ライブを楽しむことも、社会を構成する人々が提供してくれているものにただのっかっているのだ。もちろん、私もフリーライドをしているし、これを読んでいるあなたもフリーライドをしている。井上惇志は私の主張に対してミラーリングを指摘するが、もともと私は誰かのおかげで生きていけていることを自覚しているため、指摘自体はあたっているが毒にも薬にもならない、意味のない指摘になっている。
あらゆる生き方はだれかのおかげで成り立っている、を具体的な例で書き直せば、子をなさずに生きることは子をなす人のおかげで成り立っている、とすることができる。現在は身体的事情などがなくとも子をなさないことについて、少なくとも当人の周囲から強く批判されることはあまりないだろう。すでに述べているように、子をなすかなさないかはそれぞれの夫婦が決めているということは事実だし、子をなさない夫婦に出産を強制させたいとかさせるべきだとは考えていない。
社会を構成する人々の維持、別の言い方をすれば共同体の維持は誰が行っているのだろうか。法ももちろん維持に関与するが、やはり人間が共同体の維持に寄与することから、子をなす人の貢献度を職業を通じた貢献などより小さく見積もることは不適当と考える。長期的に考えれば、子が生まれなければ共同体が維持できない(どこかの時点で運営できなくなる)という推測は自然なものと思う。
井上惇志の「それぞれのやり方で、それぞれ社会と接続して、自分の役割と範囲で還元していき、それが社会活動を成す、ってことじゃないの?」というコメントは正しい。子をなすことも含めて生き方すべてを自由に選択し、社会に接続することの意義は否定しない。井上惇志や私が生きているうちに共同体が存続不可能になることは想定していない。だが、私は私が死んでからも共同体が維持されることを望んでいる(私は自分自身も共同体の維持に寄与すべきと考えている)から、コメントのような個人主義的生き方に対してストッパーをかけなかった場合に共同体の維持ができなくなる事態を懸念している。今の社会活動は、今の社会構造にフリーライドすることで成り立っている部分は否定できない。だれも共同体の維持(この議論の文脈においては子をなすこと)に寄与しないのに、みなが社会構造へのフリーライドをしつづけたら、共同体が維持できなくなる(国がなくなれば法もなくなる)ことは自然に理解できる。同性婚を法的に認めること自体が共同体の維持に悪影響があると論じているのではなく、自分らしい生き方の範囲を広げることが共同体の維持に悪影響を与え、長期的にみるとかえって個人の自由な生き方が制限されることがありうるのではないかと指摘している。同性婚が法的に認められても認められなくても、同性婚者が子をなすことはできないのだから、いずれにせよ共同体の維持に寄与しない(「生産性」がない)ことに変わりはない。
この論は、共同体という虚構についてや、共同体の維持の意義を想像することもできない人にとっては絶対に理解できない。自分が生きているうちに共同体がなくなることは考えにくいだろうし、仮になくなったとしても他国に移住すれば、あるいは侵略を受けて植民地になってもそこで生きていくことはできる。自分が死んだあとの世界がどうなろうと自分に影響がないのはその通りである。個人主義者は自分以外の個人に対する考察が足りないのではないだろうか。
生殖を人間の本質と呼ぶべきかどうかはわからないし、本質と言うものが存在するのかどうかもわからない。人間は社会的な生き物だから、創造性などを本質と捉えてもよいとは思う。しかしながら、共同体が維持できなければ社会性も発揮できないのだから、生殖が本質でないとしてもその重要性が低く見積もられるべきものではないと考える。生殖を軽視するということは共同体の持続可能性を軽視するということである。リベラルな思想をもっている人はSDGsが好きそうな印象があるが、共同体のsustainabilityには無頓着なのだろうか。「生殖がなければおれは生まれてない、確かにそうだけど、だから何だというのだろう」という考えであればしかたないのかもしれない。
生殖が本質かどうかが井上惇志にとってかなり気になるようだが、それを重要視する理由を教えてほしい。生殖が本質である場合とない場合とで、その後の思考がどのように分岐するのか興味がある。
(※補足:共同体が虚構である、という論については小坂井敏晶の『民族という虚構』『責任という虚構』などから着想を得た。以前この二冊についてはnoteで記事を書いたことがある)
⑤そもそも「議論」されているか?
(1)海外の制度が日本にフィットするとは限らない
井上惇志の主張の通り、同性婚に限らず様々な権利について議論することは自然だし意義のあることである。性的マイノリティに関して、日本の国際的な対応に矛盾や遅れがあるのは指摘の通りだと思う。しかし、決議に賛成することはその内容すべてに賛成し、自国でそれを適用することと同じ意味ではないとも考える。日本として推進できるところとできないところが生じることはしかたないと考える。もちろん、検討すら進んでいないということを批判している点については正当なコメントだと思う。
(a)社会構造へのフリーライドは存在するか
ここまで複数の項目をまたいでフリーライド性について論じてきた。井上惇志は
などのコメントをしている。コメントはすべて読んだが、私の「同性婚(個人の自由な生き方)は社会構造へのフリーライドである」という主張に対する有効あるいは明確な反論はなく、私を道徳的になじっているにすぎない。「フリーライド云々じゃなくて」は論点がずれている可能性を指摘するものであって、フリーライドの存在を否定する論ではない。同性婚推進論者には「お前も同様に犠牲の上に成り立っている」などのミラーリングに逃げるのではなく、正面から「いや、フリーライドではない」という主張をしてほしい。わずかでもフリーライド性を否定しきれなければ、子をなす異性婚者と同等の優遇を得てよい(共同体が同等の優遇を与えてよい)と考える根拠は弱まると思われる。
Acknowledgement
正直に申し上げて、これまで同性婚について自分の中で考察を深めたことはない。井上惇志のツイートを見たことで一気に興味が爆発した。長い文章を書いて自分の頭の中を整理したり新たな考えを見つけたりといった経験もほとんどなかった。やってみると、自分の考えを文章であれ口頭であれ伝えることはなかなか困難であった。図らずもこのような機会を提供していただいた井上惇志様に感謝申し上げる。
ここまでお付き合いいただいた読者のみなさまにも感謝申し上げる。同性婚に限らず、気になるトピックがあった際は文章を書いてみることをおすすめする。今回の件に関して思うことがあれば、ブログのコメントなどで私に直接教えていただけると幸いである。この議論に組み込んで検討しなおすものが出てくるかもしれないし、個々に論じた方がよいトピックであれば新たな記事を作成する材料にさせていただく。
おまけ
ドラマなどで「きれいごとを言うな!」と怒るシーンを一度は観たことがあるだろうか。どんなに素晴らしい理想や理念を掲げても、それを実現する手段や道筋が示されなければ、それはきれいごとである。データや理屈に基づかない自由な発想が新たな道を切り開くきっかけになるという意義は認めるものの、アイデアの種だけを出してその後は知らんぷりであればよい評価を下されなくて当然であるともいえる。
リベラルは昔ながらの家族という考え方を破壊してきた。
保守と革新という対立する概念は、古きと新しきの対立と構造が同じである。革新は保守を古いと切って捨て、新しい思想をもつ自分たちの方が優れていることをさかんに喧伝する。その新しい思想が優れていたとしても、例えば学問の分野において優れているだけであって社会全体にその理念を実現することができないなら、共同体がその思想を受け入れることはない。そうすると、革新は保守だけではなく共同体についても、自分たちの思う新しく優れた理想についていけない時代遅れだと批判する材料を得る。
共同体にとってどんな思想、理念が適切なのかを図る指標は、その効果や実現性などであって、新しいか古いかではない。確かに、現在の社会に改善が必要なときに新たな考えを持ってくることは必要である。それが一時的に効果を発揮したとしても、長期的にマイナスになるのであればその導入に消極的になることは十分ありうる話である。
様々な思想や学説を「発見」「開発」することはよいことである。しかしながら、それがきれいごとであるなら現実の社会に何も影響はない。同性婚推進論者、SDGs推進論者などは賛同者を増やすために「身近なところから」とか「当事者意識を持とう」などとのたまう。友達が同性愛者だったり、自分の地元の自然が好きだったりしたら、なるほど推進論者の意見も一理あるなと素朴に思う。だがこれは社会全体への影響を考えていないきれいごとであるから、このような言説は排除すべきなのである。きれいごとを言ってそれに賛同しない人々を見下して優越感に浸る。相対的に自分が新しい考え方を持っていることを喜ぶ。その実、「新しい考え方」とやらは非常に狭い範囲しか射程に入っておらず、何の役にも立たない言説をばらまいて虚構の優越感に浸っていることに気がつかない。
何かを実現する際には手を動かしたり汗をかいたりする必要があるが、「新しい考え方」の普及にいそしむ人々はそういうことは行わない。風呂敷を広げてもたたまない。社会の問題を真剣に考える人間は、詐欺の被害に注意するように彼らの言説の裏側を探る、暴く。そしてふざけた考えだと判断して離れていく。彼らは、そう判断した人間を冷笑主義とあざけり、愚かにも自分の言説の正しさバイアスを強化する。彼らはマイノリティであったとしても、救う必要のないマイノリティである。基本的人権は守られているし、文句はないはずである。