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ベトナム現採ライフスタイルとしての自炊と他炊①
ベトナム海外転職・移住の醍醐味として、母国日本でのライフスタイルをアップデートできるというのがある。移住によりベトナム現地の食生活に馴染み、それをエンジョイする人も多い。ベトナムは食文化の宝庫。そんな私も食事に「栄養補給としての食べる以外」に価値を求める方だ。
そこで自炊。自炊って言葉、逆説としての「他責」を感じる。
※ヘッダーの写真は自分で焼いた、ただの目玉焼き。
食べるものを自分で調達し食べやすいように加工する。切った叩いたの加工だけでは食べづらいので、火の特性を活かして材質を変化させ食感・味感を、調味料によってより味感を変化させる、つまり調理する。
「てめえのおまんまぐれぇてめえでこしらえやがれ!」
自己生存本能から考えると、本来自分でやるものだろう。
それを他人に委ねるとはどういうことだろう。
「自炊」に対して「他炊」って言葉あるのか?
①コンビニ・スーパーでできあいのお弁当・お惣菜を買う
②飲食店で外食する
③親類・友人など他人の家でごちそうになる
→ここまでが「他炊」
④自炊
①②は外食・流通産業に食材の調達・加工・調理及び「食べる場の提供」を委ねそれに金銭対価を支払う。
→原則「人間関係とそれに派生する営み」は対価にならない
③は人間関係に食材の調達・加工・調理及び「食べる場の提供」を委ね、それに「人間関係とそこから発生する営み」という対価を支払う。
→原則金銭は対価にならない
④は大半が自己完結
→加工・調理及び「食べる場の提供」については「人間関係とそれに派生する営み」or「金銭」いずれの対価も支払わない。食材の調達のみ「買うか貰うか自作」への対価を支払う。
日本人がベトナムで生活するにおいて「あらゆる価値観の転倒」は避けて通れない道であり、ここをどのように発想を変え楽しむかで、生きる価値自体が増す。ましてや、一般論でいえば金銭・経済的には相対的には豊かでない境遇・条件になりやすい現地採用である。べらぼうに安いローカルフードや日本よりはリーズナブルな洋食やエスニックもいいだろう。ただそれって、日本国内の外食文化・外食産業の軛に、更に言うと日本の消費文化・経済観念の範疇から飛び出せてないのではないか。
ベトナムの飲食業界、ひいては日本食業界はすでに日本人の業界ビジネスの中に取り込まれつつある。どこのお寿司屋さんで食べても仕入れ先(食材の調達)、ひいては一次加工も同じであろう。二次加工・調理はどうだろうか?一定のレベルのプロの調理人はいるのだろう。数は少なそうだが。また、セントラルキッチン化されたシステムもチェーン店業態として既にベトナムに入り始めている。
このように、もうベトナムでは普通に日本で外食するのと対して変わらないのである。ローカルフーズを選ばない限り。
てなわけで、「他炊」=(主に)外食=食材の調達・加工・調理及び「食べる場所」の外注はほどほどにしないと、誰から頼まれたわけでもなく勝手にベトナムに来たという現地採用の意義・アイデンティティそのものの(一部)否定にもなりかねないのである。
というか、よくも悪くもない日本食屋が多いベトナムで、現地駐在員ほど給与が高くない現地採用の人達がいつまでもそういう所に通い続ける意義などたいしてない。もうわかっている賢い人も多いだろうけど、自戒を強く込めて言いたい。
「ライフスタイルとしての他炊」への盲目的な耽溺へからの変革を促すという意味も含めて、特に現地採用で海外にいる人には、まず消去法的に「自炊」を推奨しておく。
【補足】
仏様の世界で「施し」という行い・概念がありますね。そこらへんにはまだ考えが及んでいないな。ベトナム及びアジアでは特にそこも無視できない。なので、そうしたあり方を否定したりするものでは一切ないですよ。